short

□泥中の蓮
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深い黒は、青みを帯びて見える。さらりと揺れる艶やかな髪を見つめながら、それに触れることを夢想する。どんな手触りなのだろう。柔らかいのだろうか、かたいのだろうか。
日に当たったら灰になるんじゃないか、なんて下らない冗談を言われているくらい白い、抜けるように白い手が、細いフレームの眼鏡を押し上げる。伏せた目を縁取る睫毛がけぶるように長い。その目が、ふと教科書から上げられた。

ばちりと音がしそうなほどしっかりと目が合ってしまう。ずっと見つめていたことがばれる、と思った。咄嗟に偶然目があっただけだと言う体を装おうとする。
しかし、それより早く彼の酷薄な印象を与える薄い唇が「三郷」と、自身の姓を呼んだ。

「っは、い?」
平坦な呼び掛けに対しての返事は、裏返る寸前のような焦りの透けた声で、それが己の耳に届くのと同時に羞恥に焼かれそうになる。彼は、あまり気にした風はなく、黒く光る眼で三郷を見る。

「手持無沙汰のようだが、もう出来たのか」
「あ、……は、はい」
「そうか。―そろそろ時間になるし、少し早いが黒板に解答を書きにきてくれるか」

白い指が彩度の異なる白いチョークを、こちらに差し出してみせた。ぎこちなく頷いて立ち上がる。まだ問題と向き合っている生徒が多い。教室は静かだ。
彼から目が離せないまま歩み寄る三郷を、彼の方でも目をそらさず見返している。明瞭に感情を浮かべることのない端麗な顔。

チョークを受けとる瞬間に触れた指は、夏の蒸し暑さなど嘘のようにひやりと冷たかった。


▼▼

くすんで曇った色をしていた空が、日増しに明度を取り戻していくように思う。今日の空は、門出に相応しく、晴れやかで美しい色をしていた。
ぼんやりと裏庭に立つ大きな桜の木を見上げる。まだ開花には早い。あるのは硬いつぼみばかりだ。それでもどうしてかその木は薄らと淡い桜色をして見えた。

ああ、と溜め息をつくように感傷が押し寄せる。三年だ。三年もの間、三郷はその身の内に花開くことを許されない硬いままの蕾を持っていた。そのまま、しおれていってくれるのだろうか。確信はわずかもない。


「三郷」

ふいに、名前を呼ばれた。彼の声を間違えることないだろう。低く涼やかな声だ。この声が読み上げただけで、教科書のつまらない文は意味を持って鮮やかに三郷の耳に届いた。
試験の最中さえ、彼の声を思い出して解答を埋めていた。お陰で三郷は、こと彼が教える教科においては覚えのめでたい優秀な生徒でいられた。

「……四宮先生。」
振り返って微笑んでみせる。靴底が地面と擦れて、砂利が小さな音を立てる。
いつもよりも質の良さそうなスーツを着た彼の胸元には卒業生のクラス担任がつける花飾りがある。白いその造花は、彼によく似合っていた。いつも表情が薄く、とっつきにくい印象を受ける彼の端麗な面にそっと笑みが乗る。

「卒業おめでとう、三郷」
「ありがとうございます。」
「担任の先生に、第一志望に受かったと聞いたよ。それも、おめでとう。」
「先生に教えてもらった甲斐がありました」
「君はとても呑み込みのいい生徒だったから」

彼は、二人きりだとそっと静かに話す。声をひそめているわけでもないのに、秘密の話をされているように感じていつも胸が疼いた。
隣に並んで、桜の木を見上げる彼の横顔をそっと盗み見る。

「……明日から、この学校に君がいないなんて、とても不思議だ」
「寂しい? 先生」

おどけて言いながら、思う。そんな質問、どんな生徒が相手でも寂しいと答えるだろう。ましてや、三郷は隣のクラスの生徒だ。三年間で一度も彼が担任だったことはない。「寂しい」の一言は、何の情動もなく告げられるのだろう。
けれど、彼は眼鏡の奥の美しい目を三郷に向けてゆらりと視線を揺らした。

「―そう、だな。寂しい、んだろうな……僕は。いつも友人に囲まれている君が、その輪を抜け出して、とっつきにくいと言われている僕なんかに話しかけてくれるのが、いつも嬉しかった。」
「え……」
「君にとっては、何気ないことだったと思うけれど、僕は―君が、そうやって話しかけてくれたり、僕のつまらない話に耳を傾けて笑ってくれたりすることが、とても嬉しかったんだ。授業だって、……いや、こんなことを言うのは、きっと教師らしくないよな」

彼は言いかけた言葉を呑み込み、唇を軽く噛んで恥じるような素振りをした。すまない、と囁くような声で話すことを止めてしまう。

想いが突き上げてくる。
三年間ずっと、彼が特別だった。見掛けると傍に行きたくて、学校中の誰よりも自分が一番彼と親しくなりたくて、彼に会いたくて、彼を自分のものにしてしまいたくて。

その彼が、まるで自分を特別視でもしていたかのようなことを言う。堪らなかった。

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