short

□未定
2ページ/2ページ




今日はずっと雨降りだ。四階の東端にある資料室は狭く、本と紙と、スプリングの壊れたソファーで埋まっている。
ドアを開けた木崎は、床に散らばる紙を避けて、物珍しそうに中に入ってきた。俺はいつも、もう不要なものらしいからいいかと気にせず踏みつけているが。

「初めて知った」
「なかなか良いところでしょ」
「はい」

その答えに満足して、ぽんぽんと隣を叩く。木崎は、黙って座った。
毎度丁寧に失礼しますと言うのをやめさせたのは俺だ。別に俺は偉い人ではないし、隣に座ることは失礼ではない。木崎は、素直に頷いて言わなくなった。心なしか嬉しそうだったのが不思議だ。

木崎と知り合ってからどのくらい経っただろうか。昔から一緒にいるかのようにしっくりくる。


「この味付け、好きですか」
「大好き」
「……よかった」

どちらかというと無愛想な木崎が眦を和ませて笑う。雨音を背後にのんびりとした空気が流れる資料室は、一人でぼんやりしているときよりも好きな場所だと思えた。

木崎はその目立つ長身とは相反して、寡黙で、動作も静かで丁寧な男だ。時々聞く声は低くて優しい。人の声がこんなにいいものだとは知らなかった。
俺は木崎をとても好意的に見ているけれど、木崎には俺がどう見えるのだろうと少し気になったが、欠伸をしたら忘れてしまった。


弁当箱を片付けた木崎のブレザーを軽く引っ張ると問うような目が向けられる。俺は木崎が深くソファーに腰かけるように促してから、その膝を我が物顔で枕にした。硬い腿が、さらに強張る。

「―黒田さん?」
「眠い」
下から木崎を見上げる。男らしい顔だ。いつも凪いだ目が慌てているかのように揺れるのを見て、ちょっとした悪戯心が沸いた。

「けーじ」
「っ、え……」
「どういう字?」
「慶長の慶に、司書の司」

名前を呼んだら、どんな顔をするだろうかと思った。結果、彼は、ずいぶん俺の心を擽る反応を示した。今までになく驚きを表情に出して目を丸くしてから、はっきりと照れたのだ。
あ、可愛い、と思った。教えてくれた字を頭の中で組み合わせる。慶びを司る、か。

「慶司」
「……はい」
「って、呼んでもいい?」
「勿論です」

ぎくしゃくと頷く。何故俺に呼ばれたくらいでこんなふうに照れるのだろう。
少し笑うと真っ黒な目が凝視してくる。この強い眼差しにも慣れた。君が楽しいなら好きなだけ見なさいよという気持ちである。


「慶司も、鼎って呼ぶ?」
「えっ、」
さっきから、落ち着いた慶司らしからぬ反応がいっぱいで面白い。膝を枕にしたまま両手で口を押さえて笑う。眉間の皺は、照れから来ていると分かっているので怖くない。

「いいんですか」
「いいよ」
「―鼎さん」
「……、」

真剣な顔で、とても大切なもののように口にするから、柄にもなく俺まで照れてしまった。きっと慶司のが移ったのだ。半端に笑い声を溢して、慶司の腹に顔を埋める。硬い。シャツからうっすら柔軟剤の香りがする。
そっと躊躇い気味に、慶司が俺の髪を撫でた。慶司の手は大きいから、俺の頭を片手で掴めてしまいそうだ。


「慶司」
「はい」
「寝る場所、見つける」

ソファーしか座る場所のないここでは、二人一緒に寛ぐことは出来ない。どうせなら、慶司も一緒に昼寝をしたらいいと思うから、ちゃんと広い場所を見つけなくては。
これまで、俺のお気に入りの場所の条件は静かで、日がよく当たるかあるいは狭いというものだったが、今度探すのは静かで暖かくて広い場所だ。


「……じゃあ、俺も」
「うん」
「おやすみなさい、鼎さん」

するすると髪と頬を撫でられる。手が大きくて暖かくて、いい匂いに包まれて「おやすみ」とちゃんと応えられたかどうかは、よく覚えていない。


.
前へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ