恋愛

□“幻想”
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「うわ、ひっどい顔ー!」

「うるさい。歩く変態元素」

「……え、ちょっと待ってそれ僕? 僕のこと? おかしいよ、心外なんだけど!」


何やら喚いている弟を横目に、私は膝に顔を埋めた。

その際に、また口から溜め息が漏れて。
完全に気が滅入っている。


膝を抱えたこの体勢は、長くやっていると腰や背中が痛む。
実際、カーペット越しとはいえ床に座っているのだから、腰も背中も固まっていた。

この姿勢で、一体何時間いるのだろう。

泣いていた目はきっと腫れて、酷い有り様になってるんだろうな。


だからといって、それをオブラートにも何にも包まずに素で口にする弟も無躾というかなんと言うか。

もう少し紳士的に接することはできないのか。
だからこいつモテないんだと思う。

だいたい、『ひどい顔』とか傷付いた乙女に向かって使う言葉じゃない。いい加減にして欲しい。


……なんて悪態をついて、気を晴らそうとしたんだけど。

なんだか、上手くいかない。


「あーもう……全部お前のせいだこのやろー」
「はぁ? 何で?」
「うるさいし、あんたが悪いんだし」
「……またあいつに何かされたの?」
「…………別に」


少し低められた弟の声。
嫌なことが頭をよぎって、視線を横に滑らせる。

すると、それを追い掛けるように弟が覗き込んできた。

目を合わせると、弟は私をじっと見つめてくる。

さっきまでのふざけた雰囲気は何処にもなくて、居心地が悪い。


「……ねぇ、何されたの?」


静かな声でそう問われて、私はまた逃げるように目を逸らした。


「別に。……あんたには、」
「関係ない、って?」


先を言われて、つい弟に目をやってしまう。
どこか苛ついたような表情で、私を見つめる弟。

弟はにこりともせずに、言葉を続けた。

「あんたは前からそう。僕が何訊いても関係ない関係ないって。
……僕がどれだけ心配してると思ってんの?」
「……でも」
「ねぇ、僕嫌なんだよ。あんたが泣いてるの、見たくない」


弟の顔が、ぐっと近付く。

きっと弟は、その先が欲しい訳じゃなくて、ただ純粋に心配してくれているのだろう。

だから、それ以上は動こうとしない。


今の私には、些細なその行動が救いだった。


弟はもう、私が泣くようなことはしない。
確かな理由も無いのに、何故かそう思えて。


「……ねぇ、」


弟を見上げて、渇いた唇を動かす。
目も、手や背中も痛くて、吐き出した息は淀んでいたけど、それでも縋るようにその腕を掴む。

弟は、何も言わずに私を見つめ返した。


「あんたは……私のこと、好き?」

「……好きだよ」

「……嫌いに、ならない?」


泣きそうになる心を抑えながら、絞り出した声。

その問いに、弟はすぐには答えない。

ただ、軽く目を伏せて息を吐くと、私を見て口を開いた。


「いっそ、嫌いになれたら良かったんだけどね」
「……嫌い?」
「んーん。大好き」


そう答えて、弟はにっこりと微笑む。

優しげに緩んだ目元が、どことなく彼と似ていて。

一瞬でも、そう答えてくれたのが彼だったならと考えた自分に嫌悪した。


……私、最低だ。

弟と彼を重ねるなんて、ありえない。
絶対に駄目だって、わかっていたはずなのに。


……今は、彼のことを思い出したくない。

なのに、彼が頭から離れなくて。
あの冷たい目を、どうしても忘れられない。


弟に、守って欲しかった。
その腕で、庇って欲しかった。
懐かしい匂いに身を任せて、何もかも捨てたかった。


でも、そんなことは許されない。
彼は、許してくれない。

本当は逃げて、弟の胸に縋りたい。


彼との写真。彼の為に作ったお菓子。


全部、全部捨てられてしまった。


苦しい。痛い。泣いてしまいたい。逃げて、忘れたい。

けれど彼は、私のことを好きだと言う。

矛盾する彼の言動に、惑わされてばかりだ。


私は、彼のことが好きで。

彼もそうなら、何も迷うことなんて無い筈なのに。

……どうして、こんなことなってしまうんだろう。


弟に、縋りたい。
きっと弟なら、私を助けてくれるだろう。


でも、私は弟の腕を掴んだまま、それ以上は動けなかった。

理由なんて、分かりきってる。

彼は、私が弟といることを良しとしない。
……私は結局、彼を離せやしないのだ。

いつだって、そう。
私は、彼を離せない。
離したくない。

彼が私を優先してくれなくなるのが、嫌。
私を見てくれなくなるのは辛い。
その香りに包まれていたい。
私を抱き締めたその腕で、他の女を抱くなんて、耐えられないの。


彼に苦しめられてるのに、逃げることができない。
離れようとする度、激しい嫉妬と、何かも分からない彼への感情に苛まれる。

……私だって、弟に気付かされる前からきっと、何度も逃げようとしていた。

それでも逃げきれなかったのは、私の醜い感情のせい。
私が彼への思いを引き摺ったから。

いっそ、彼が断ち切ってくれたら、私は逃げることができるのだろうか。


震える唇を動かして、言葉を発する。


「彼は……私のこと、好きなのかな?」
「……」
「……彼にね、あの写真捨てられちゃったの。チョコも……。だから、嫌われたのかなって」


視線を落として、静かに呟く。

その時のことを思い出さないようにと、膝を寄せて体を縮めた。

それでも蘇ってくる記憶に、握った手をきつく締めていると、弟が声を上げた。


「……写真って、破られてたやつ?」

「あ……うん、……それが、捨てられちゃって」

「……そんなの、当たり前だよ」

「え?」


弟の言葉が予想外で、首を傾げた。


当たり前、なんて。
一体どういう意味なんだろう。

私は黙って、弟の言葉を待つ。


「……だって、あの写真であんたと一緒にいたのは、」


けれど弟はそこで、はっとしたように口を噤んだ。
そして、ばつが悪そうに目を逸らす。

私は訳が分からずに眉を顰めた。


「何? 最後まで言ってよ」
「……まだ分からない?」
「な、何が……」


何で最後まで言ってくれないんだ。
それにそんな風に言われても、分かる訳ない。


不満気な表情を浮かべる私に、弟は少しだけ口を開いた。


「前に、あの写真に写ってるのは誰かって、訊いたよね」
「え……あぁ、うん」
「それで、僕はなんて答えた?」
「それは……」

頭の中で、弟の言葉を反芻する。


『そこに写ってるのは、君と……俺』


彼のふりをした弟は、確かそう答えた。

それはつまり、私と彼ということじゃないのか?


もし違うとしたら、それは……。


「僕は、嘘は吐いてないよ」
「……どういう、意味」
「分かってる癖に。粘るなぁ」
「……早く答えて」
「はいはい。……要は、僕は喋り方を変えただけだよ、って言ってんの」


静かに響いた弟の声。
それに、どくんと、体全体が脈打ったような気がした。


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