恋愛

□“懐古主義者の催眠術”
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小さく呼吸をして、生唾を飲み込んだ。
眠ってる間にこんな事するなんて、最低だなあ。
抵抗できないように手足縛ってるのと、何も変わらない。

でも実際そうなんだろう。
もしあんたが起きてたら、抵抗しないように縛り付けていないと、ろくに抱き締めることもできないんだろう。

抱き締めるのさえ、今の僕には許されないんだ。あんたは他の人のものになったから、ただそれだけの理由で。


「……っ」


息を吸うたびに肺に入り込む香りが愛おしくて、ぎゅっと目を瞑る。

大丈夫。今の姉は僕を拒むことなんてできない。
嫌がられることなんてない。僕を傷つけるようなことは言えない。

嫌われることも、きっとないだろう。


「……好き……」


小さく小さく、囁く。

返事は、帰って来ない。
当たり前だ。あんたは眠ってる。
僕の言葉に反応なんて、するはずもない。

姉は僕を拒むことはしない。受け入れることも、しない。
姉は僕を傷つけない。でも、優しく包み込んでもくれない。

それは何処までも一方通行で、雲を掴むみたいに、反応がない。
でも、それで良かった。

それで良かったんだ。



「…………」

暖かい体を抱き寄せて、柔らかさを堪能して。
切なさに息が苦しくなって、どうしようもなくなる。

頬に熱が集まるのが、自分でもよく分かった。

その体も心も、全部欲しくて、奪ってしまいたくて、より力を込める。


そんな時、抱き締めていた体が僅かに動いた気がした。

咄嗟に、息を止める。
起こしてしまったかと、そう思った。
一気に血の気が引いて、指や足、体の感覚が薄れる。

それでやっと、我に返った。

……ああ、何やってるんだろう。

こんなところ見られたら、姉はなんて思うだろうか。

臆病な姉のことだ、きっと怯えて、それで、僕は嫌われてしまう。

だから今まで我慢してきたのに、それをふいにするところだった。
……もう、夢は終わりにしよう。

首に回していた腕を解いて、体を離す。
暖かいものが離れて、喪失感だけが体を取り巻いた。


やっぱり何処か惜しいような気もして、けど、そんな自分に嫌悪して。

後ろ髪も後腐れも全部断ち切って、やっと起き上がろうとしたのに。


「……ま、って……」


弱々しい、大好きな声が聞こえて。
それができなかった。


「なんで、起きて……」


元々真っ暗な目の前が、さらに黒く塗り潰された気がした。

どうしよう、なんて言えばいい。なんて言い訳すれば、嫌われないで済む?
なんて嘘を吐けばいい? どんな風に騙せば……。

そんな事が、頭の中をぐるぐると回る。
ただ焦るばかりで、体も口も、少しも動かない。

もう、逃げてしまおうか。
暗いし、どうせ姉にだって僕はよく見えてないだろう。大丈夫、いくらでも誤魔化せる。

それしかない、なのに。
その手が、僕の腕を掴んで。
まだ意識が覚醒していないのか、寝ぼけているのか、その力はとても弱い。

少し動かせば簡単に姉の手はベッドに落ちるだろう。
けど、そんなことできなかった。

「……い、かないで、おねが……」

「……あ……」

泣き疲れたかのような、乾いた声。
それが僕に懇願しているから。

どうしようもなく心が震えて、堪えられなくて。
だから起きようと突いていた腕の力を、抜いてしまった。

弱々しく掴んでくるその手を、握り返す。
すると、姉はほっとしたかのように息を吐いて、腕を回してきた。

距離が、一気に近くなる。

驚いた。こんな風にされるなんて、思ってる訳なかった。
心臓がどくどくと早鐘を打って、頭の中が煩くなる。

カーテンも閉めきって真っ暗な中で、目の前に姉の顔がうっすらと見えた。それが予想以上に近くて、さらに混乱して。
もうどうしたらいいのか、全然わかんなくて、暗い部屋の中に視線を逃がした。


「……き、なの……」

「え……」

相変わらず、縮こまるような小さな声は聞き取り辛くて。


でも、そう聞こえてしまったのは、僕の勘違いなんだろうか。

そうだとしたら、じゃあなんで、とも思った。
そう思っているのなら、何でって、繰り返し馬鹿みたいに考えて。


でも分かんなかった。
一秒間に何回同じ事考えても、何も理解できなかった。

何でこんな状況になってるのか、何であんたがそんなこと言うのか、何で、こんなかさついた唇に、塩の味のする湿った感触が押し当てられてるのか。

全然、全然わかんないよ。


「……ん、……」


鼻から抜けたような声が自然と漏れて、情けない気持ちになる。

苦しくて、でもそれが心地よくて。
浮き足立つような感覚に、酔いそうだった。
唇が合わさって、ただそれだけなのに、どうしようもなく体が熱くなる。

こんな感覚は、知らない。
こんな感情、どうすればいいんだろう。

ただでさえ息がしづらいのに、吸い込む空気からは、あんたの匂いがして。
もう、堪えられない。


「あ……ね、もっと……」


離された唇に焦がれて、そうねだる。

だって、だってこんなに苦しい。
まだ足りない、もっと欲しい、ずっと我慢してたんだ。こんなんじゃ満足できない。

気が狂いそうだった。


たったひとつの出来事で、まさかこんなにされるなんて。
やっぱり僕も単純だ。

こんなに簡単に舞い上がって、今までにないぐらいの幸福感を貪って。



「  」


…………それで、たったひとつの言葉に、此処まで叩き落される。


あんたの口から出たたったひとつの単語、それだけで。……僕はこんなにも落胆する。

簡単なことだった。



あんたのその柔らかい唇が紡いだのは、僕の名前じゃなかった。


……ただ、それだけのこと。


「……は、」


ああ、幸せな気分だった。
泣きそうなぐらいに、虚しい。

それなのに、笑いさえ込み上げてくる。

だって全部分かってしまった。


何であんな状況になっていたのか、何であんたがあんなこと言ったのか、何で、あんなかさついていた唇に、塩の味のする湿った感触が押し当てられていたのか。


……そうだよね、ご飯も食べずに泣き通すほど、会いたかったんだもんね。
今は見えないけど、たくさんお洒落して、もっと好きになってもらおうとして、頑張ってるもんね。
恥ずかしがり屋なあんたが、自分からこんなことするくらい、好きなんだよね。

全部、全部知ってるよ。
だって、ずっと見てきた。
だってずっと、好きだった。


……あーあ。


「……初めて、だったのになあ……」


すっごいどきどきしたのにな。すっごい、気持ち良かったのに。
……幸せだったのに。


無意識に唇にやっていたらしい手は、何故か生温い水で濡れていた。
それを口に含んでみると、さっきのキスと同じ味がして。

乾いた笑い声が出た。


身体を離そうと、少し身動いだ。
すると、姉は縋るように声を上げる。

「いか……ないで、嫌いに、ならないで」

涙声で、情けないくらいに震えて、必死でそんなことを言う。

置いていかれることに酷く怯えている姉は、哀れだった。
きっと姉はもう、何処か壊れてしまっているのだろう。


「おねが……、っなんでも、するから……」
「……馬鹿」


ああ、仕方ないな。
もうどうにでもなればいい。

もう、どうだって良かった。
どうして許してしまうのか、自分でも信じられなかった。


こんな姉捨ててしまいたいと、確かに心の何処かで思っていた。
それでも出来ないのは、それをしたら、自分がおかしくなってしまうのを分かってるからだ。

「大丈夫だよ」

大切な大切な、僕の姉。
僕が、守ってあげるから。

大好きなあんたのお願いだもんね。
傍にいてあげるよ、あんたの望む形で。

許してあげるよ、許すしかないんだから。

喉まで出かけた欲も、全部全部蓋をしてあげる。
我慢してあげる。あんたがそれを受け入れてくれないなら、そうするしかない。

だって、大好きなんだもん。嫌われたくないよ。
大好きなんだよ。たとえ嘘でも、あんたからの好意が欲しい。


「俺は、此処にいるよ、……今日は、ごめんね」
「……あ……」

適当に、真似なんかしてみる。

その途端に肩の力を抜いて、僕に身を預けるあんたが憎らしい。

本当に馬鹿みたい。
伝書鳩どころじゃない。これじゃまるで身代わり人形だ。

このままの調子で、「嫌い」って言ったらどうなるんだろう?
泣くんだろうか、縋り付いて来るんだろうか。
そしてあいつを嫌いになるんだろうか。

そうしたら、きっと別れるんだろうけど。
それはとてもいいことだけど、下手したら僕が嫌われそうだ。


だから、そんなことはしない。
させてあげない。

だってそれは、あんただけが悲しんで、あいつはちっとも悲しまない。
そんなのは許せない。

僕の一番大事な人を奪ったんだ。
僕のものを奪ったんだ。
ただでなんて置かない。

だからあいつが一番傷つく方法で、奪い返すんだよ。


今は何も言わないであげる。
だからそのどうしようもない関係を続ければいい。

どうせ自滅するしかないんだから、もういっそ泥沼って言えるぐらいにごちゃごちゃになって、それで僕に助けを求めればいい。

あいつにあんたのことなんて、分かるはずもないんだ。
あんたのことを分かってあげてるのは、この僕だ。

ちゃんと助けてあげるし、幸せにしてあげるよ。
その為の踏み台くらいにだったら、あいつにさせてあげてもいいよ。ちゃんと帰って来させてあげるから。

恋人ごっこを続ければいい。
二人で逃げようとなんてしようものなら、それこそ容赦なんてしない。

その時は可哀想だけど、引き離してしまおう。
そしたら僕がつきっきりで慰めてあげるから。

でも、そういうのって好きじゃないんだよ。
あんたには笑っていて欲しい。

だから、ちゃんとしてよ。
必ず幸せにしてあげるから。
少しの我慢だよ、得意でしょう?


絶対に許さない。
弟の癖に、生意気だよね。
何が、部外者だ。

邪魔者はお前の方なのに。
お前がいなければ普通でいられたのに。


許さない。

絶対に、取り返す。




にっこりと、得意でもない笑顔を作る。

そして、その唇にもう一度口付けた。


「……おやすみ」



二度目のそれは、もうなんの味もしなかった。




懐古主義者の催眠術  fin.
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