なごり雪に花香らず
□5、秘密
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戦の終わりは早い。
城に戻れば勝利の宴が開かれ、あっという間に日常に戻る。戦に出ていた分執務も滞るが、三日もあればどうとでもできる量だった。
何時もそれの繰り返しである。
此度の戦の後もそうなるだろう、と三成は何となく思った。
「いやぁ、此度の戦も我が豊臣軍の勝利。それも左腕であられる石田殿の力あってこそにございますなあ。」
「…くどい。」
宴の席では、こうして家臣たちが必ず酌をしにくる。おべっかをかかれるのは不愉快極まりないのだが、無礼講故受けないわけにもいかない。
うんざりしながらも、嗜む程度に酒を含んだ。
「相変わらずだな。」
「…酒臭いぞ、家康。」
少し顔を赤らめた家康にピシャリと言い放つ。相当飲んだのだろう、むせ返るような酒の香りに三成は顔を歪めた。
家康は三成の横に腰を下ろすと、徳利を傾ける。
「…私はもう飲まん。」
「今夜は無礼講だそ?今日くらいワシに付き合ってくれ。」
「…ふん」
コクリ、と飲み干す。喉が熱くなり、思わず眉を寄せる。だが、満たされていなかった何かが酒を飲むことによって、少しばかり落ち着くのだ。
そういった部分では自分も人間としての欲があるのか、と目を伏せる。
すると、視界の端で不意に家康が部屋をキョロキョロと見渡し始めた。
「…今日も居ないのか?」
恐らく刑部のことだろう。
「…刑部はこういった場を好まない。体を休めろと言っておいた。」
「いや、まぁ刑部もなんだが、優だ。」
「…なに?」
「優も宴にはいつも出ないんだが、今回は戦が終わってから一度も見かけてないから、少し心配でな。」
そう言った家康の目は、この場にあの女が居るのではないか、という期待に輝いていた。
その表情に、驚く。
家康は普段自分の心情を口にしたり、顔に出す男ではないからだ。
私情でこうも生き生きとしているところは、初めて見たと思う。
そして、一つの疑問につながった。
「あの女を、好いているのか?」
家康が酒を吹き出す。それが私の羽織にかかったが、あまり気にせず言葉を待った。
「す、すまん三成…羽織を汚してしまった…!」
「図星か。」
「……ワシもよく分からないんだ。ただ、今みたいに気が付いたら目で追っていて…。」
正直、家康の言葉など耳に入ってこなかった。
ただ頭に思い浮かぶのは、昼間私の命令を拒絶した不機嫌そうなあの女の顔と、伊達に見せていた笑顔。
刀を見えない速さで振り回し、次々と敵を斬っていく勇敢さの中に見つけた、儚く脆い何か。
家康は、それを好いているという。
だが、何なのだ、この焦燥感は。不快で胸を締め付ける思いが胸に広がり、これが家康の言葉が原因なのだと気付く。
拭っても消えないソレに三成は首を軽く振った。
「……三成?」
「…私はもう部屋に戻る。」
それだけ言うと立ち上がった。
自分も家康も酒に酔っているのだ、そう自分に言い聞かせて。
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三成は自室へ戻るべく、暗い廊下を一人歩く。
月明かりで照らされた庭は幻想的で、そこで漸く戦が終わったのだ、という脱力感に襲われた。
夜風が頬を撫で、髪が揺れる。
酒を飲んだ所為もあるだろう、火照る体に不快感を覚え、水を飲んでから自室へ戻ろうと井戸へ向かった。
バシャッ
井戸から水の音が聞こえる。打ち付けるような激しい音に、三成は首を傾げた。
こんな夜更けに誰だ、怪しく思わずにはいられず、警戒する。さらに言えば、今宵は宴。城の者はほとんどと言っていいほど宴に出ているはずだ。
少し近付くと襦袢一枚の人間が居ることが分かった。水の打ち付ける音に、自分の足音は掻き消される。
『っはぁ…』
女の声だ。
その女は桶に水を汲んでは頭から被り、手ぬぐいで肌を強く擦っている。それを何度も何度も繰り返す。
今はもう冬前だ。
側から見れば狂おしいほどの行為に、思わず声をかけた。
「何をしている。」
『っ……』
行為に夢中で、自分の存在に気付いていなかったらしい。大きく肩を揺らし、ゆっくりと振り向くその姿もは見覚えがある。
「貴様は…」
『っ……どうして此処に…?』
優だった。濡れた髪の隙間から覗く瞳が月の光に照らされる。
動揺した優は手に持っていた桶を床に落とした。そして恨めしそうな目で私を睨みつけてくる。
『宴に…出て居たのでは…?』
「抜け出してきた。賑やかな場は好かん。」
そうですか、優はそう言って目を伏せる
だがハッとしてその場から逃げようと立ち上がった。
「待て」
『っ…!?』
突然腕を掴まれ、その反動で後ろを振り向く。
そこには逃すまい、と目を光らせる三成がいた。
手首をしっかりと掴まれ、逃げようと力を込めてみるがビクとも動かない。男らしい骨格の腕は、さらに力を込めるとグイッと引き寄せた。
距離を縮めると優の瞳をじっと見つめる。
「…逃げるな。」
『っ……!』
三成は力を緩めることなく、優の肌蹴た着物から見える胸元を見た。
恐らくその部分も手ぬぐいで擦ったのだろう。擦りすぎたのか、皮膚が赤くなっている。
胸元だけではない、首も、足も、掴んだ腕でさえ赤くなっていた。
「……何をしていた」
『離してください…』
「貴様が言えば離してやる。」
優は観念したかのように息を吐くと、逃げようと力を込めていた腕から力を抜いた。
『血を、落としていました。』
「…返り血か。」
『はい。』
話によれば、いつも返り血を落としているのは、皆が宴に出ていて、今のように人気が少ない時らしい。
だから私がいた事にあれ程驚いといたのか、と納得する。
「…そんなに擦らずとも落ちるだろう。」
気になったことを口にすると、優は黙り込んだ。
何故肌が赤くなるまで擦るのか。到底正気とは思えない。
『……こすっても、こすっても、落ちた気がしないのです。』
「……」
『戦から幾日経っても…自分から血の臭いがする様な気がして……』
消え入りそうな声でそう白状した優の手は、僅かに震えていた。
そこで初めて、この女の腕の細さに気付く。とても刀を握っている人間の腕とは思えないほど華奢で、どこに筋肉が付いているのかも分からない。
それが余計に弱々しく見えて、三成は手を放してやった。
戦場からは想像できない目の前の、硝子細工のような生き物に、言葉を失う。
『今宵の事は……誰にも言わないでください。』
それだけ言うと、優は足早に去って行った。
あの女は一体、
何を抱えている…?
そんな疑問を三成に残してー…
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弱さに気付いてしまった三成。