無償の愛を。
□その二
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「っく………」
傷の痛みで、目を覚ます。名無しはゆっくりと目を開くと、体を起こさずに部屋を見回した。囲炉裏の近くで仔太郎と飛丸が寝ており、戸の隙間から差す光が、もう朝だということを告げている。
そして、傷の痛みとは別の重さを感じ、思わず首を起こして体を見た。そこには先程の女が手拭いを握ったまま眠っていた。
恐らく眠らずに自分の手当てをして居たのだろう。顔こそは逆の方向を向いていて見えないが、その艶やかで長い黒髪が目を引いた。
染めていなくても綺麗な黒をした髪が少しだけ羨ましい。
ふと、仔太郎との会話を思い出す。自分の赤毛を受け入れて、髪を気にしなくても良い様に、共に異国へ行こうと言ってくれた人間なんて、初めてだった。
今思い出しても嬉しくて口角が上がるが、今は自分の上に倒れ込んだ女を起こさなければならないと、手を伸ばした。
「…おい」
『…ん……。』
よっぽど疲れているのか、揺すっただけでは起きない。代わりにくぐもった声が漏れた。
こんなにも無防備に男の側で眠る女が居るだろうか。しかも、男を簡単に中へと上がらせて…。手当てをしてもらったのにそんなことを言うのもあれだが、思わず溜息が出る。そして再び、強く揺すった。
「おい、起きろって。」
『…ん…………あっ』
瞳を開けて、くるりと此方を向いた女は、たいそう驚いた顔をした。そして急いで体を起こして、あたふたと慌てる。
『ご、ごめんなさい…あっ、傷は?』
「あぁ、さっきよりはマシだな。」
『そっか、良かった。』
笑顔で微笑む女に、名無しは思わず言葉を失う。なぜ素性の分からぬ男に笑えるのか。
『……名無し…さん?』
仔太郎が教えたのだろう。不安気に尋ねてくる女にハッとした。
「……名無しでいい。女、名は?」
『葵。怪しい者じゃないし、危害を加えるつもりもないから、怪我が治るまで此処にいて良いわ。』
その言葉に目を見開く。何故そこまで自分に親切にするのかが全くもって理解出来なかった。だが、男の上で無防備に眠る女のことだ、言葉の通り危害を加えるつもりはないだろう。
それにこの怪我ではまともに馬も乗れない。
「…世話になるな。」
名無しは仕方なく、そう言うのだった。
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「あっち!!!!」
『急がないの。火傷するでしょ。…はい、飛丸』
「わんっ!」
久しぶりに食べるまともな食事に、仔太郎と飛丸はがっついた。その姿に葵は思わず笑みを零す。そして別の椀にも注ぐと、布団の上で座っている名無しに渡した。
『はい。』
「…あぁ。」
慣れない手つきで椀と箸を受け取る名無しに、首を傾げる。そして、それが左手であり、利き手である右腕を負傷しているのを思い出した。これでは食事もまともにとれないだろう。
二人の間になんとも言えぬ空気が流れ、がっついていた飛丸も仔太郎も、此方を振り向いた。
『……手伝うよ。』
「すまないな。手間をかけさせて」
『ううん。』
そして葵は箸ではなく匙に持ち帰ると、名無しの為に作った粥をすくい、フゥーフゥーと息を吹きかけた。そして名無しの口元まで運ぶ。所謂、あーんだ。
さすがにこれには名無しも戸惑いを見せる。葵の後ろにいる仔太郎も飛丸もこちらを呆然と見つめていた。
しかし、今更断るわけにもいかず、渋々口を開くと粥を飲み込んだ。
『ふふ、なんかこういうの初めてだから照れるなあ。』
頼むからそんな笑顔で言わないでくれ、と顔を逸らす。久しぶりに食べた白米は甘かった。
『味はどう?』
「…美味いな。」
自分がこんなにも口数が少ないのは、きっと本調子ではないからだ、と名無しは思い込むのだった。
自分の手当ての為に徹夜したこの女が分からなかった。そして、仔太郎と飛丸とは別に、怪我人の自分の為にわざわざ粥を作ってくれたという事実がこれでもか、というほどに心をくすぐる。
そして、もう一口、と匙を口元に近付けてくるその笑顔が、名無しには眩しくて仕方なかった。