ゆめ
□においの話
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彼自身の欲求を満たすために気紛れに頭を撫でられたり、キスをされたり、噛み付かれたりすることはあったけど、抱き締められたことは無かったように思う。…それは、私から彼に触れたことがないからだったのだろうか。
「おっ…と。珍しい歓迎の仕方だな」
普段通りふらりとこの街にやってきた彼の顔を見た途端におかしくなりそうなくらい胸が苦しくて堪らなくなって、いつもくだらないプライドと理性で雁字搦めに縛った本心をさらけ出すように彼に抱きついた。もっとも、彼の心情を勝手に想像して勝手に悩んだり悲しんだりした結果のこの行動に過ぎないのだから彼にしてみればいい迷惑というか意味が分からないというかそんなもんなのかもしれないけれど。でも、だけど彼だっていつも好き勝手に振舞っているのだから、私だって。なんて延々そんな言い訳を自分にし続けていなければすぐにでも彼を突き放して「何でもないですけど」とか言ってしまいそうで。自分の面倒くさい性格が嫌になる。
「どうしたんだよ、俺がいなくて寂しかったのか?」
口を開けば嫌味を言おうとしてしまうのでへの字に曲げて閉じたまま僅かに首を縦に振るだけに止めた。彼からしてもその反応は意外だったのか、ため息混じりに「何か言えよ」という声が降ってくる。それでも黙っていれば観念したように彼の腕が私の体に回される。引きはがされなかったことに驚いたのと、その動作がやたら優しかったことに困ってしまったのとで、心の中が更にぐちゃぐちゃに乱されるのを感じた。
…こんなにくっついたのは初めてかもしれない。だからいつもは意識すらしない彼のにおいにこんなにも満たされた気分になるのだろうか。それに、不思議なことに、私はこのにおいとこの息苦しさを知っているような気がする。直感的に、ああきっと昔同じようにしてもらったことがあるのだなと思った。
「あ、もしかして心配でもしてくれてたのか?だとしたら、らしくないことするな」
…だとしたら。彼の話と辻褄の合わないことになる。だって彼は私が第二コードに上がった時に初めて会ったとその口で言ったのだ。私も覚えてないから勿論初対面なのだと思った。だけど私の直感を信じるならそれは嘘だったってことだ。それは別段驚くべきことではないのかもしれない。日常茶飯事として冗談や嘘ばかり吐いている彼なのだからそんな嘘をついていたとしても不思議じゃないしすっかり彼のことを忘れて新鮮に反応するのを面白がって私のことを見ていたのかもしれない。でも、何故そんなこと言ったのかはきっと聞いたって答えてくれないのだ。考えたって、きっとわからないし。
「そんなに必死にならなくても、お望みとあらば俺がいくら元気があるか嫌っていうくらい見せてやってもいいぜ?ただしもっと暗くて人の来ないとこで、な」
「カルロス、うるさい」
意味深に耳元で囁かれたって騙されないんだから。頭の中でも遠回りな考え方で言い訳ばかりする自分にも腹が立ってる。
「…せめて何にも言わないでよ」
…簡単に言うと、カルロスにそんな嘘をつかれていたことが面白くなくて、悔しいのだった。
大きく息を吸って、記憶の奥をくすぐるそのにおいで肺を満たす。もしも思い出せたって、言ってやらないんだから。根源の分かり切っているイライラは全て抱きしめる腕の力に変えて心の中で真っ赤な舌を出す。