空谷の跫音

□102号室の御狐様
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 九月も半ばになり外はすっかり秋めいて来た。
 叔父さんとの一件から約二週間。
 昼夜問わず積極的に由良くんとスキンシップを取り続けた結果、叔父さんの根回しもあった為か最初の一週間が嘘だったかのように由良くんとの距離は縮まった。
 そして彼との距離を縮めた事により、この二週間で多くの事を知る事となった。
 まず、本当は彼が凄く人懐っこいという事。人見知りはするけれど慣れれば自分から寄ってくるし、何をするでも無くただ傍に座っていたりして本当は寂しんぼなのかも知れない。
 身体に触れられるのはまだ慣れないようで触れれば肩を跳ねさせ震えるが、何もせずにただずっと抱き締め続ければそれも治まる。
 実母が義父の眼盗みよくしてくれたから抱き締められるのは結構落ち着くから好きだと言っていた。
 次に、彼は火傷の後遺症なのか右目の視力が悪く物にやたらとぶつかり転ぶと言う事。生傷が絶えず、傷がなかなか完治しないのもそのせいの様だ。
 かと言って、大きな事故にならないのは右側は殆どその人間離れした聴覚に頼っているらしく、右側の方が物音の反応が早いので自転車や自動車などは直ぐに避けられるそうだ。
 しかし、耳が良いというのは少し考え物で、些細な物音で目を覚ましていまい熟睡は出来ていないらしく目の下によく隈を作っている。
 つい最近までその苦悩を味わっていたので、彼の辛さがよく理解出来てしまい何とかしたいとは思うのだが、彼は俺の足音にさえ肩を跳ねさせる。
 その後直ぐに何でもないように振る舞うが、身体に染み着いた恐怖を取り除く事も俺には出来ない。
 彼の生きるために身に付けた術なのだとしたら尚更の事だった。
「由良くん、入るね」
 なんて、いつも彼の部屋に入る時はノックをしてから声を掛けるが、廊下を歩いている時点で彼は俺が近付いて来ている事を知っている。
 部屋の扉を開けた時には扉の前で正座をしてじっと此方を見詰めているのだ。
 ぶつからないように、ゆっくりと少しづつ開いて足元の彼を探す。
「……あれ? 由良くん?」
 いつもならば旅館のお出迎えのように膝を折り、待ち構えていてくれている由良くんの姿が見えない。
 微かに布擦れの音がしてベッドの方に目をやれば、毛布から白い小さな手のみが覗いていてる。
 遠慮がちに薄く膨らんでいる毛布になるべく足音を殺して近付き、少しだけ開いて中を覗くと由良くんが眠っていた。
 しまい忘れた右手以外の手足をぐっと畳んで、熱を逃がさないように尻尾をぐるりと身体に巻き付けている様は狐同然と言えよう。
 思わず、ピタリと折られたその髪色と同じ大きな狐耳に手を伸ばして撫でやると、ビクリと肩を跳ねさせて起き上がり、上体を低くして威嚇体勢に入った。
「あ、ごめん、そんなつもりじゃ……由良くん?」
 ぎっと牙を剥いていた由良くんが何の前触れも無くへたりと崩れ落ちた。
 けほけほと咳き込み、苦しそうに荒い呼吸を繰り返している。アイスのように溶けた瞳は焦点が合わず此方を見ているにも関わらず俺を捉えられていない。
 脈も早く、体も随分と熱くなっていた。
 間違いなく、熱だ。
「ど、う…しよ」
 時刻はまだ七時を少し過ぎたばかりだと言うのに、雪寛の診療所は十時開店だからまだ三時間もある。
 しかし、由良くんは今にも死んでしまいそうなくらい辛そうに小さな身体を震わせている。
 三時間も待てるのか?
「由良くんと取り敢えず横になろう」
 由良くんを布団に戻らせて、体温計と水を持って来た。
 計っている間に叔父さんに電話を掛けるが、こんな時に限って電波の繋がらない場所にいるのかいくら掛けても応答が無い。
 焦る気持ちを嘲笑うかのように軽快な音が鳴り響き、体温計を確認すると三十九度三分と予想よりもかなり高い数字が刻まれていた。
 どうしよう。俺がしっかりしなければいけないのに。頭が回らない。側にいるのに、何も出来ない。何をしたら良いのか分からない。
 嫌に冷たい汗が全身を伝う。
「……病院、行かないと……救急車? でも、獣人だから」
 げほ、げほっ、と一段と苦しそうに咳き込んだ由良くんが視界に入った瞬間に働かない思考回路の代わりに、 身体が勝手に突き動いた。
 ぐったりと全身の力が抜けている由良くんを抱えて、家を飛び出す。エレベーターのボタンを連打して乗り込み、四階のボタンも何度も押した。無駄に長く感じる待ち時間に苛立ちを募らせて、エレベーターを抉じ開けるように飛び出し真ん中の部屋のインターホンを殴る。
 自分が馬鹿力である事とか、まだ七時を回ったばかりだとか、近所迷惑だとかはもう完全に頭に無かった。
 この間の叔父さんも、こんな感じだったのかも知れない。
 インターホンのカバーがバコッと鈍い音を立てて外れた頃、ゆっくりと扉が開きチェーンを掛けた僅かな扉の隙間から雪寛が不機嫌そうな顔を覗かせた。
「今何時だとっ」
 扉の隙間に手と足を入れてチェーンを引きちぎる。開けば何でもいいと思った。
「雪寛!! 由良くんが熱!!」
「お前っ、ドアどうすんだよ!? ああ!! インターホンも壊しやがったな!?」
「熱なんだよ!!」
 玄関に押し入り、頭を掻いている雪寛の目の前にまるで献上でもするかのようにずいっと由良くんを差し出す。
 この短時間で足は脛くらいまでフェネックの足に戻っており、ただでさえ小さい身体は更に小さく軽くなっている。
 もはやフェネックに戻るのは時間の問題と言えよう。
 それが悪い事だとは知識の無い俺には言い切れないが、今よりも小さく、そして動物に戻ると言うのに人間の病気で三十九度も熱があると言うのは不安でしかない。フェネックなんて、あまり生態を知らない物ならば尚更だ。
 もしも死んでしまったらなんて、考えるだけで血を吐きそうだ。
「……熱だな」
 額に手を当てた雪寛が呑気に分かりきった事を言う。フラストレーションは溜まりまくりだ。
「だから言ってんだろ!? 三十九度もあんだよっ!!」
「心配なのは分かるが一旦落ち着けよ。ここじゃ診察も何も出来ない。病院の方に行くぞ」
「……」
「大丈夫、死にやしないさ。あ、でも温かくはしてやれ。タオルケットを取ってこよう」
「……し、なない」
「死なない、死なない。大丈夫、大丈夫」
 死なない。と言う言葉に張り詰めていた緊張の糸が切れたように力が抜けてへたりと床に座り込んだ。
 死なない。良かった。良かった。
 でも、苦しそうにフーフーと息を吐く由良くんを見ていると胸が痛いんだ。
 赤子のように小さな由良くんを胸の前にぐっと抱き寄せる。
 足はついに膝まで戻っていた。
 眠っているのか大きな目が開かれる事もない。
 怖い。怖いんだ。失うのが、怖いんだ。
「……早く、……早く、しろっ……よお!!」
 他人にこんなにも声を荒げたのはいったい何時ぶりだろうか。
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