空谷の跫音

□102号室の居候
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 俺と彼女が別れた日。
 その日は蒸し暑く、肌に纏わり着く空気がやたらと重苦しかったのを覚えている。
 見えない何かに押し潰されそうになるのを必死に耐え、ただただ呼吸をして生を繋ぎ止める。
 それがその時の俺に出来る最大限の事だった様に思う。
「あのね、この世界には『人』と『動物』と、『そのどちらでも無い者』が存在するの」
 窓から射し込んだ日差しで恐ろしい程赤く染まった部屋の中で、彼女はそう言った。
 横になった俺の頭を「良い子、良い子」とまるで百点を獲ってきた子供を褒めるように何度も何度もゆっくりと優しく撫でながら。
「貴方と私は『そのどちらでも無い者』なの。人ではなく、動物でもないその中間。人の形で在りながら動物の特徴を持ち、剰え条件を満たせば獣その物に成れる『獣人』と呼ばれる存在」
「……じゅーじん」
 彼女が誰なのか、彼女との関係は何だったのか、今となってはもう思い出せない。
 ただ、大切な存在だったとは思う。
 細く白いその手や、ゆったりとしたその口調、狭い肩幅も全てがただ愛しかった。
「そうよ。隠していて、ごめんね。......獣人は数が少ないから、これから貴方は沢山の人に注目されるでしょう。人と違うから、何度も嫌な想いをするでしょう。時に人を憎み、憎悪に染まってしまうかも知れません。でもね、覚えていて」
 変に言葉を切った彼女はゆっくりと息を吐く。ゆらゆらと赤を反射しながら輝く瞳はルビーの様で美しく、彼女が微笑し細められると同時に、キラキラと輝く大粒の涙の宝石を溢れさせた。
 綺麗なのに、ぽたり、ぽたり、と滴が俺の頬に零れ落ちる度に、鋭利な刃物が刺さった様な突き抜けて行く痛みが胸を走る。

「貴方は、独りじゃないわ」

 裏返った、力を振り絞った様な震える声だった。
「......嘘だよ」
「本当よ。獣人の人たちはきっと貴方の見方になってくれるし、貴方を支えてくれる。必要なのは、貴方が手を伸ばすこと。求め合って、支え合ってきっと素敵な関係になれるわ」
「×××は?」
「私? 私はもう無理よ。出来る事なら支え合いたいけど......ごめんね。もう、傍に要られないわ」
 困った様に微笑を浮かべた彼女は、俺の額に口づける。
 少しカサついた唇は、氷の様に冷えて今にも人で無くなろうとしていた。
 あの憎く恐ろしい程の赤は、夕焼けの色だけでは無かったのだ。
 あの赤には確かに彼女が混じっていた。
 虚ろになっていく彼女の瞳が、彼女がもうすぐ終わろうとしている事を告げており、怒りにも似た感情が腹の底から込み上げて来る。
 今思えば、この感情は怒りでもなく悲哀だった。
「……嫌だよ、一緒にいたいよ!!」
 こんな我が儘は言った所で無意味で、ただ彼女を悲しませて困らせるだけだと、頭では理解していたはずなのに爆発した感情が口を紡がせた。
 それを抑えるだけの理性を、まだ幼かった俺は持ち合わせていなかったのだ。
「でもね、......大丈夫よ、王太。......だって、貴方は」
 しかし、それ程、愛しかったと言う事だ。
 それ程、大切だったと言う事なのだ。
 どんなに彼女が困った顔をしても、どんなに彼女が涙を流しても、側に居られればそれで良いと心の底から願えてしまう程に彼女を求めていたのだ。

 それなのに、
 それなのに、俺は

「貴方は王様なんだもの」

 そう言って最期に笑った彼女の顔すら思い出せないでいる。

 二十年が過ぎた今でも、まるで彼女が忘れるなとでも言っている様に、この日の事はこうして幾度と夢に見る。
 何度見ても、いくら思っても、想いだけを募らせるばかりで、彼女の事は一切思い出せ無いのだけれど。
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