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□メランコリックな指先
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ユノが、鼻歌混じりに昨日のトッポギに入れることがかなわなかったカッティングされたパイナップルとイチゴを、切り込みを入れたクロワッサンに、ホイップクリームと一緒に詰め込んでいると、背後から伸びてきた指が可愛いイチゴを摘まんでいく。
「泥棒さん、髭が痛い」
うなじに吸い付いていた恋人の唇が、盗んだイチゴを食べるために一時離れた。
「どうせ、髭を剃ってる間に、その甘ったるいサンドイッチまがいのものを持って、アンタはテミンさんとこに行くんでしょう?」
朝に弱い恋人のチャンミンは、だいたいいつも怖い顔をしているが、今日に限ってはやけに、仏頂面だ。
そんな恋人の表情を、チラッと目で確認したユノは、クスクス笑う。
「泥棒さんにも、泥棒を働く理由があったんだな?」
親友のテミンに対して、嫉妬している様子のチャンミンは、今度は出来たてのフルーツサンドイッチにまで手を伸ばした。
あーっ!とユノが、悲鳴を上げた瞬間には、チャンミンの大きな鯉のような口に、サンドイッチは無情にも吸い込まれていってしまう。
むしゃむしゃと咀嚼するチャンミンの眉間には、口に入れた瞬間から皺が寄っている。
全てを呑み込むと、不満を口にした。
「あまっ!」
歯が溶けると不機嫌顔になったチャンミンは、毎朝の朝食はご飯派で、そこまで甘いものが好きなわけではないので、当然の反応だ。
「そうか?今からここにチョコソースかピーナッツバター足そうと思ってたんだけどな」
聞くだけで虫歯になりそうなものを、作ろうとする甘党のユノとは、根本的に形成されている味覚が違う。
「いや、もうこれで十分だ。これ以上は、食べてもらえないですよ」
「そうか?テミニ、昔ラーメンに蜂蜜入れたりしてたぞ?」
「ラーメンに蜂蜜だと?アンタの創作料理の才能は、テミンさん譲りか?」
「違うし!!」
呆れ気味に頭を抱えてチャンミンが呟けば、心外だとばかりに腰に両手を添えたユノが、胸を張って反論してきた。
「ユノシェフの発想力は昔から無限に広がってるし!テミニがラーメンに蜂蜜入れるのは、砂糖っていう基本調味料を知らない素人だったから!!ユノシェフの創作とは違うんだ」
熱弁をふるうユノを、チャンミンは白々しい目で、じとっと見つめた。
「いや、世間から見たらアンタもテミンさんも同じレベルですからね?普通の料理を作れてこその変化球です。ピカソだってね、普通に絵を描いたら、写真のように模写できるんですよ?」
「そうか、テミンはまさかのライバルだったか」
チャンミンの小言めいた言葉を華麗に無視をして、神妙な面持ちでユノは顎を掴んで、うーんと頷く。
これにはもう、何も言う気にならなかったチャンミンは、はぁと深い溜息を零すだけだ。




「はい?」
寝癖でボサボサの頭を掻きながら、ドアを開けたテミンは、目がまだほとんど開いていない状態だ。
きっと、自分が鳴らしたインターホンの音で起きた口であろうと、ユノは笑いながら、おはようと言い、テミンの鼻のてっぺんを指で一回ちょんと押した。
「どうしたの?こんな朝早くから」
そう言いながらも、ドアに背を預けてユノが通れるスペースを確保して、中へと招き入れてくれるテミンは、まだ寝惚けている。
ホテルの部屋に入るなり、ユノはベッドサイドに置かれたキャリーバックに目をつけ、勢いよく振り返って、テミンに詰め寄った。
「なんで荷物開けてないんだよ?!」
鋭いユノの指摘に、テミンの頭は覚醒し出した。
苦笑を浮かべて、前髪をぐしゃりと掻き乱しながら、昨日もて成された料理に手をつけることなく、帰ってきたこのホテルの部屋で一晩考えたことを口にする。
「明日か、今日にはニューヨークに帰ろうと思って」
絨毯が敷き詰められた柔らかな床に、何とも言えない気まずさから視線を落としていたテミンは、何の反応もないユノの顔へと、そっと視線を持ち上げた。
すると、怒っているだろうと思っていたテミンの予想を裏切り、ユノは酷く悲しげな表情をしていて、テミンは信じられない気持ちで、ユノ?と細い輪郭へと手を添えた。
「テミン、俺が嫌いになった?」
促しに応じて、ポツポツと喋り出したユノは、子犬みたいに頼りない。
思わず、テミンは首を緩く横に振ると、ユノの首に腕を回して、ぎゅっと抱き締めた。
「嫌いなら、こんなことしないよ?大好きだよ、俺の可愛い可愛いユノ。苺で餌付けして、一生俺が面倒みたいくらい、愛しい存在だ」
これは、出会った時からずっと思っていたテミンの本心だった。
よくよくそれを紐解いていけば、自分がユノを親友としてではなく、恋愛の対象として見ていた事実は明白だったのに、バレエ一筋で生きてきた自分には、高難易の振り付け並みに消化するのに時間が掛かった。
が、普通に恋愛をしている人間からすれば、10分もあれば消化できる簡単な振り付けレベルで、自分の気持ちに気付かない方が不自然と笑われるに違いない話だった。
鼻先に触れるユノの髪からは、自分の知らない匂いがする。
それすらも、今のテミンには苦痛だった。
恋愛とは、バレエを踊るよりも難解で苦しくて、こんなにも辛いものとは思っていなかった。
「なら、一緒に踊ろう?テミン」
テミンの胸に手をついて、距離を取ったユノが、真っ直ぐ視線をぶつけてくる。
バレエを極めることにのみ特化した情熱が揺らめく、純粋な穢れのない黒い瞳。
昔の自分なら、満面の笑顔を浮かべてユノが喜ぶ返事を即答できていたが、今はそうじゃない。
バレエ以外のことを、ユノに期待してしまう自分がいる。
最早、気持ちのベクトルが違う方向を向いてしまっている今、ユノが望んでいる答えを口にできずに、唇を引き結ぶことしかテミンができずにいると、ユノはぎゅっとテミンの両手を握り締めて、畳み掛けてくる。
「お前は、俺の踊りが恋しくならなかったのか?俺はなったよ?お前の踊りが見たくて堪らなくなった」
ずるいな、とテミンは内心で苦く笑う。
テミンとユノはライバルである前に、お互いにお互いのバレエダンサーとしてのファンでもあった。
その心情には、今も変わりはない。
ニューヨークにモダンを極めるために留学した一ヶ月で、ユノの踊りが恋しくなった。
ユノなら、どうこれを踊るだろう?
いつも一緒に踊っていたアンシェヌマン(バレエのポジションを組み合わせて作る短かいダンス)とパ(バレエの型の総称)を踊るユノの姿を思い浮かべては、頭の中で再生してみたりもした。
「ずっとここにいろよ、テミン!!バレエを辞めるその日まで、ずっともう離れたくない」
手を引かれ、ユノの胸の中に抱き締められる。
一番敬愛している人間からの口説き文句に、心が揺らがないわけがない。
勿論、違う意味でも。
ユノにその気がなくとも、誤解したくなる甘美な言葉の数々に、酔いの回った心が更に冷静な思考を妨げていく。
これぞ、甘美な毒だ。
自分の意思とは違う所で、もう既にパリに戻ってくることを決意してしまっている。
毒は毒で制するしかないが、テミンには今その毒がないのだ。
ユノの毒に浸食されていくのを、防ぐ手立てがないのだから。
「それに今度、フォーサイスを振り付け師に招いて、本格的なコンテポラリーもやるんだ」
肩を掴んで自分の胸からテミンを離したユノは、キラキラした無垢な目を向けて語り出した。
「フォーサイスも、テミンに振り付けするのを凄く楽しみにしてるって」
フォーサイスは、現代の尤も最先端の振り付け師として有名な人間で、今回の牧神の午後では舞台監督としても参加していて、モダンをやっている人間の羨望の的でもある。
フォーサイスの振り付けを何回も踊ったことのあるテミンは、彼のカンパニーにも実は誘われていた。
何も言葉を発さずに、ただユノの言葉を聞いていたテミンのお腹がぐうーっと鳴った。
一瞬、きょとんとしたユノだったが、すぐに噴き出すように笑うと、ベッドに置いていたリュックサックをがさごそと漁り出した。
「テミンのお腹が喋るなんて」
クスクス笑うユノに、昨日の晩から何も食べてないとは言えないテミンは、照れ隠しも含めて茶目っ気たっぷりにこう言った。
「何て言ったか分かる?」
「ん〜、腹へった〜だろ?」
「違う違う。」
「んじゃあなんだ?苺食べたい?」
「それはユノだろ?こいつはね、今こう言ったんだよ。二年ぶりだからって、忘れてるだろうけど、チョンユノは人たらしだから気をつけろ〜って。そいつの話に耳を傾けるよりも俺に飯を食わせとけって」
テミンがお腹を擦りながら言うと、ユノはむっと怒った表情をわざと作ると、テミンのお腹をじーっと睨みつけて、お腹に耳を押し当てた。
「テミンのお腹の虫さんは、そんなこと言うのか?ん?まだ文句言ってる」
そうとなれば、虫さんを買収しなきゃと言ったユノが、リュックからじゃーん!!と言って取り出したのは、ランチボックスだ。
「え?なにこれ?」
手に持たされたランチボックスに素で驚いているテミンの表情に満足したユノは、にっこり笑い蓋を開けた。
中身を見たテミンは、歯を見せてくしゃくしゃの顔で笑う。
「懐かしい〜、ユノの手料理だ」
「お腹の虫さんも、きっとこれでパリから離れられなくなるぞ!ニューヨークには、ユノシェフいませんからね!」
テミンは、いただきますと言い、クロワッサンを一つ手で掴んで、豪快にがぶりと齧り付いた。
甘味ばかりが舌の上を転がる。
けれど、これが懐かしい。
甘党のユノが朝食を担当した日は、だいたいこんな味のものしか出てこない。
朝からチョコアイスドリンクと、苺と生クリームが沢山乗ったパンケーキや、サンドイッチを作れば、だいたいフルーツサンドで。
それだけで、二人で暮していた日々が思い出される。
「おいしいよ、ユノ。お腹の虫さんも今必死に食べてる」
お腹に視線を落としながらテミンが言えば、ユノもはにかむように笑った。




朝食を振舞われたら、レッスンに付き合わないわけにもいかず、テミンはユノに手を引かれるままに団のレッスン場へと足を運んでいた。
バーレッスンとアンシェヌマンが済んだ後は、牧神の午後の稽古に入る。
ストレッチをしながらテミンが様子を見守っていると、この演目には出演しないのか、身体を持て余しているチャンミンがそばにやってきた。
「いつ帰国されるんですか?ニョーヨークには」
両足を左右に180度に開き、べったりと胸を床にひっつけていたテミンは、チャンミンの言葉に上体を起した。
「ユノに聞いてください」
途端、露骨に嫌な表情を晒したチャンミンに、やっぱり昨日ユノが言った言葉を、この人は聞いていたのかと、テミンは確信する。
ユノは自分のことをそういう意味で引き止めたかったんじゃないと、テミンが説明しょうとした時に、taemin!!と英語発音で呼ばれて、振り返れば、フォーサイスが会いたかった!とテミンの手を握り締めてきた。
「テミン、君も牧神の午後に出ればいいじゃないか」
簡単に言ってくるフォーサイスにテミンは、笑いながら首を横に振る。
「留学先から戻ったばかりですし」
「何を言ってるんだ。お前の身体は踊りたくて仕方ないって感じがするぞ?」
にやりと笑ったフォーサイスは、指導者のイレールの隣の椅子に座ると、何やら真剣に話し出した。
傍にいたチャンミンと言えば、もう違うチームメイトと話し出していて、テミンはまぁいいかと、稽古をじっと眺めていた。
結局、ユノと妖精役の五人の女性たちのヴァリエーションを十回ほど通して踊らせた後、イレールが立ち上り、渋い顔でユノにそれではダメだと指摘し出した。
と同時に、フォーサイスがこちらに向って歩いてきた。
「テミン、君の出番だ」
「え?」
言われた意味が分からずに、床に転がったままフォーサイスを見上げてしまう。
「君の頭には、もう振り付けが入っているだろ?」
テミンは、簡単な振り付けなら一回、難しいものでも三回見れば、覚えてしまえる。
それをフォーサイスも知っていて、踊れと言ってきているのだ。
それでも自分が踊る意味が分からずに、疑問を視線に乗せれば、フォーサイスは両手を掲げて大袈裟なジェスチャーをする。
「チョンユノは、自慰をしたことがないのか?」
「へ?」
目を丸くするテミンを気に掛ける様子もなく、フォーサイスは捲くし立てる。
「セクシーさがないわけではないのに、情欲に没頭する男の必死さが感じられない。だからみんなそうなるのか、試してみたい。テミン、君だけだろう、今ここで振り付けが頭に入った上で、ユノと遜色ないレベルで踊れるのは、イレールもそう言っている」
チラっとイレールに視線を向けると、厳しかった表情は一転し、今度はユノを励ますように柔らい笑みを浮かべて肩を叩くと、テミンを手招きした。


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