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□Rainy BlueA
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「これ」
大学近くのカフェに場所を移して、僕の隣にユノ先輩、ユノ先輩の向かい側にはジョンヒョニヒョンが座っている。
そのジョンヒョニヒョンが、財布から取り出したのは一枚のチケット。
なんで自分がこの場所にいるんだろう?とぼんやり考えていた僕は、アイスコーヒーをストローで吸いながら、ちらっとチケットに視線を向けた。
目の端で捉えたそれに、見覚えがあると感じたので、ついつい見てしまったのだ。
どうりで見覚えがあると思った。
今にも空調の風で頼り無く飛ばされてしまいそうになっているチケットは、オニュヒョンのコンサートのもので、見覚えがあるのは当然だった。
関係者ということで、自分も二枚だけ先日貰ったから。
「観に来てもらえませんか?」
やけに緊張した面持ちで、ジョンヒョニヒョンはユノ先輩を見つめて言った。
暫く無言でチケットを見据えていた先輩は、ふっと口元を緩めて、自嘲気味に笑う。
「ジンギのために観に来いって?」
‘ジンギ’それはオニュヒョンの本名で、ジョンヒョニヒョンはオニュとは呼ばずに、ジンギと呼んでいたから、僕も知っている。
けど、先輩も知っている所をみると、やっぱり友人なのだろうか?
途端に先輩が、屈託なく本心から笑っていたあの笑顔が思い出される。
ユノ先輩にも、ちゃんと全てを曝け出せる人間がいるってことか。
でも、この空気の重たさは尋常じゃない。
友人の話をするには、些か重たい気がする。
先輩の問い掛けに、ジョンヒョニヒョンも暫く考え込んでいた。
熟考に熟考を重ねた結果、意を決した様子で言葉を吐き出す。
「いえ。貴方のためにも」
「へー・・・。俺のためにも?」
頬杖を突いた先輩は、片方の口の端を持ち上げて、皮肉めいた笑みを浮かべた。
その笑みは、言うまでもなくジョンヒョニヒョンを馬鹿にしている。
「そうです」
「お前とジンギのためじゃなくて?」
「俺は関係ないです。ジンギと貴方のためです」
「関係ないか・・・。まぁいいけど。でもそのチケットはいらないから」
え!?と目を丸くしたジョンヒョニヒョンは、立ち上がって鞄を持った先輩に、慌ててチケットを押し付けようと手にしたのだが、それよりも早く先輩が、それまで蚊帳の外だった僕の腕を取り、立つように引っ張り上げ、一言。
「この後輩が、どうしても俺にピアノ聴いてもらいたいって、この間チケット一枚くれたんだ」
な?と微笑みかけられて、いきなりの出来事だったので、咄嗟に何故か僕も、はいと言ってしまっていた。
ジョンヒョニヒョンは、驚いた顔をしつつも、なら・・・。とチケットを財布に仕舞い直す。
「じゃあ、会場で。優しいジンギの恋人のプロデューサーさん?」
伝票のペラペラの紙を指で挟んだ先輩は、僕の腕を掴んだまま、ズンズンと長いコンパスで歩いていき、全員分の会計を済ませる。
「先輩、自分の分は」
外に出て、鞄から財布を取り出そうとする僕を、先輩は振り返り見て、いらないと素っ気無く答えた。
「無理につき合わせたから、これくらいいい」
自覚は流石にあったのかと、何も言わずに先輩を見ていると、むっとした様子で取り出したサングラスを掛けようとする。
「先輩、チケット代いらないからそれ、やめてくださいね?」
「は?」
「サングラス。綺麗な顔が拝めないのは、寂しいってさっき僕言ったでしょ?」
「無理。お前の目きらいだもん」
ツンっとそっぽを向く先輩は、我儘を言う子供みたいだ。
なのにその横顔は、馬鹿らしいくらい美しくって、そのギャップが可愛く思う。
綺麗な鼻筋が日差しを浴びて、一段とその秀麗な形を見せ付けていて、思わず目を眇めた。
「なら、チケットあげれませんよ」
にこっと笑って言うと、先輩はいらないよと即答。
「観に行って何かが変わるとは思えない」
サングラスで目は見えないので表情は分らないが、そう言う先輩の声は、無性に切なく響く。
切ないメロディーを奏でる楽譜を目にしているように、音階が並んでいる気がした。
「でも、変わらないなら変わらないなりの結論だったってことになりませんか?それならそれで今が正しいんだってことでしょう?」
普段なら、こんな抽象的な会話はしない。
自分が分らない話に首を突っ込むのは、正直あまり好きじゃないから。
なのに、気付けば余計なことを口走っていた。
余計なお世話だって言われるのだろうか?と先輩を見ていると、彼は徐にサングラスを外して、木漏れ日にも似た柔らかい笑みを浮かべ、明日のゼミにチケット持ってきてくれよ?と言い、僕に背を向けて歩き出した。




約束通り、次の日のゼミで先輩にチケットを渡した。
小さな顔の半分以上を埋め尽くすサングラスの姿もなく、先輩は素直にありがとうと言って、はにかんでいた。
物足りなさを感じるくらいの先輩の棘のない態度に、面食らった。
逆にその態度のせいで、僕が妙に緊張してしまい、気にしないで下さいとだけ声を掛けるのが、精一杯で、すごすごと定位置となっている自分の席に逃げ帰る始末だった。
それからは仕事が立て込んでいたので、大学にはなかなか行けない日々が続き、早いもので気付けば、オニュヒョンのコンサートの当日になっていた。
直前まで、用意してもらった別室でピアノを弾いていた僕は、観客の開場時間が始まった頃に、メイクと衣装に着替えるように言われ、身支度を整え終わると、再びピアノを弾くために部屋に戻ろうとしていた。
その道すがらで、オニュヒョンとジョンヒョニヒョンの声が聞こえ、ちらっとその部屋を覗きこんだ。
「ヒョンが?」
酷く困惑した目をジョンヒョニヒョンに向けるオニュヒョン。
「イヤだったか?」
「そうじゃないよ。ただ来てくれない気がする」
寂しげに目を伏せたオニュヒョンの肩に、ジョンヒョニヒョンは両手を置くと、距離を詰めて向かい合う。
「来るよ。だってあの人もジンギが大好きなんだから。・・・いや、愛してるんだから来るに決っている」
そんなジョンヒョニヒョンの言葉も慰めにならないのか、オニュヒョンはただただ俯いたままだ。
「誰よりもお前の幸せを望んでるのがユノヒョンだもん」
突然出てきた名詞に、驚くことはなかった。
振り返れば、オニュヒョンと先輩が何かしらの関係があるのは勘づけたし、先輩だけではなく、一度食い入るように雑誌の中の先輩をオニュヒョンが静かに見つめていた様子も、折に触れて思い出していたからだ。
あの時、確かオニュヒョンはそっと先輩の写真に指を這わせていた気がする。
けれど、ジョンヒョニヒョンが語った真実は、僕の想像を遥かに超えていた。
「お前を愛してるからこそ、お前の世界を壊さないように、ユノヒョンは必死だったんだろ?兄弟っていう世界でしか、ジンギの笑顔が存在しないのを理解して。自分の欲望のためだけに楽園を壊したくなかったんだ。そんなユノヒョンらしい優しい愛が詰まりすぎた気持ちを、お前も知っていた。知っていたけど、欲しくて仕方なかった」
兄弟?オニュヒョンと先輩が?
本当の兄弟なのか?
衝撃に見開いた目には、何もかも見透かす恋人に参ったとばかりの表情を晒したオニュヒョンが、泣きそうな顔で笑う姿が映る。
「ジョンヒョナ・・・君がたまに怖くなるよ。なんでそこまで僕の気持ちが分かるの?そう、欲しかった。意外と僕は強欲だ。ヒョンが思ってるより繊細じゃない。どっちかっていうと繊細なのはヒョンだ。僕ら二人にもともと楽園なんていう世界はない。二人だけでいられたら、僕にとっては、そここそが楽園だ。二人だけで永遠に生きていられさえいれればいい。だけど、そんな世界はヒョンにとっての楽園ではなくなってしまう。僕の方が、よっぽどヒョンをそういう意味では愛していた。だから離れてあげるべきなんだ。ユノっていう綺麗な人を壊さないために。どれだけ悲しくても、どれだけ虚無感で胸が溢れようとも、ユノのためにはこうするしかない」
堰を切った感情を、溢れるままにオニュヒョンは言葉を紡いでいく。
物静かで理性的で紳士。
短い時間で得たそれらのヒョンのイメージを、覆すには、十分すぎる熱情が荒々しく語られる。
その今まで長い時間、誰にもぶつけられなかった感情が、爆発する様を静観している気分だった。
火の海となって、その感情に呑み込まれてしまいそうだと思った瞬間、場の雰囲気を一転させる歌声が、部屋に響き渡る。
的確にメロディーラインを辿る技術は、天性の才としか称賛できない技巧で、聴く人間を圧倒させてしまう。
オニュヒョンの深く心に語りかける歌声とは、また一味違う歌声だが、金を払ってでも誰もが聴きたいと感じるのは、確かだ。
ジョンヒョニヒョンの歌声が、ここまでのものとは思わなかった。
鼻歌混じりに歌を口ずさんでるのを聴いて上手いと思ってはいたが、本格的に歌われるとその辺の歌手レベルでは霞んでしまうレベルだ。
ジョンヒョニヒョンが歌ったのは、僕とオニュヒョンがコラボするステージで歌う楽曲の最後の部分。
‘あの頃の優しさに包まれてた想い出が、流れてくこの街に’
‘It's a rainy blue
It's a rainy blue
It's a rainy blue
揺れる心、濡らす涙。
 It's a rainy blue 
・・・loneliness ’
驚愕に満ちた表情で、ジョンヒョニヒョンの歌を聴いていたオニュヒョンは、歌い終わるなり、まさかと呟く。
「そう、この曲はジンギのユノヒョンに対する想いを歌詞にしたんだ」
優しく微笑んだジョンヒョニヒョンは、そっとオニュヒョンを抱き締めた。
「ユノヒョンが守ったその歌声で、告白すればいいじゃん。ヒョンだけじゃないって。今でも寂しいのは僕だってな?雨が降る日は、胸が痛んでなかなか寝られない。それでも雨の日は、ヒョンも自分を思い出してくれるんじゃないかって期待する。歌でだっていくらでも伝えられる。言葉にするのが躊躇われる言葉も歌でなら、届けられる」
ジョンヒョニヒョンの腕に包まれていたオニュヒョンの肩が、激しく上下し出す。
この時ばかりは、オニュヒョンよりも背が低いジョンヒョニヒョンが心同様に、大きく包み込んでいるように見えた。
そんなジョンヒョニヒョンだから、オニュヒョンも恋人に選んだのだろう。
切り裂かれた痛みに寄り添い、いつか忘れさすために振り続ける静かな雨。
晴れ渡るその日が来なくても、静かに心を濡らして満たしていく優しい雨のようなジョンヒョニヒョンがいれば、オニュヒョンはきっと大丈夫だ。
そう感じた瞬間、あの人は大丈夫なのだろうか?と先輩の綺麗な横顔が頭を過ぎった。
オニュヒョンの心が先輩に届けられるまで、後一時間もない。
何かが変わるとは思えないと先輩は言った。
けど、今日で確実に何かが変わる気がする。
その変化が、先輩にどういう風に作用するのだろうか?
つらつらと考え事をしていた僕は、ジョンヒョニヒョンが部屋から出てきたのを、寸前になって気付き、ドアの前で鉢合わせしてしまった。
あ、と声を上げたヒョンに、すみませんと苦笑を漏らしながら、かっこいいですね?と声を掛けた。
「俺に惚れた?」
「これで惚れない男がいたら、そいつは男じゃないですよ。まぁ、女性は本当の意味で惚れちゃうと思います」
すると、途端にヒョンはそわそわし出す。
どうやら褒められることには、滅法弱いらしい。
「てか、ずっと思ってたんだけど、テミニってユノヒョンと付き合ってんの?」
唐突な質問に、どうしてそう思うのだろう?と思いながら、手を顔の前で左右に振った。
「違います。ただのゼミ仲間?っていうか、仲間でもないかも。同じ教室にいるってだけの間柄ですよ」
「本当か?じゃあお前はゲイじゃないの?」
「どうしたんですか?ジョンヒョニヒョン?」
普段はこんな突っ込んだことを聞いてこないヒョンを訝しむ。
「え、いや・・・その・・・だって」
視線を彷徨わせて、言いよどんでいたヒョンだったが、あああ!!もういい!!と急に自棄を起して、早口で捲くり立てた。
「ジンギが、テミンがゲイならいいのにって言うから」
「はい?」
「双子は直感的に、相手が好きになる相手が分かるらしい」
双子?そのフレーズにひたすら驚いている僕に向って、ジョンヒョニヒョンはうっかりしてたとばかりに手で口を覆った後、まぁテミニだからいいかと話だした。
「実は、ジンギとユノヒョンって二卵性の双子なんだよ。今は公にしてないんだけど、そのうちすると思う。で、さっきの話しの続きなんだけど、ジンギがテミンにならヒョンをあげてもいいって急に言い出して、最近ずっとゲイだったらいいのになぁって言うのが口癖なわけ。で、ぶっちゃけお前ノーマルなの?」
ずいっと一歩踏み出して前のめりで聞いてくるジョンヒョニヒョンに、ヒョンが弱いであろう笑顔を作る。
「そういうのって、僕に惚れた相手しか聞く権利がないんですよ?惚れてから聞いてください」
しーっと唇の前に人差し指を一本当てて言えば、ヒョンはピアニストイテミンには惚れてる!!と往生際が非常に悪い言葉を吐いていた。
それには綺麗に無視をして、僕はピアノを弾くために部屋に戻る。
ドアを閉めると、自然と言葉が口をついた。
「双子だったんだ」
それなら、先輩が誰にも心を開けずに、自分の殻に閉じこもってしまうのも分った気がした。
唯一愛した人間が、半身のような存在の弟。
血の繋がりよりも優先してしまいたくなる劣情に、何度も支配され、その度に自分を汚いと思い、せせら笑う。
世間の恋慕や情をウザイと感じ、拒絶してしまうのもしょうがない。
世間の人と自分の差を、顕著にものさしとして測られてしまう瞬間、寂寥感や苛立ちに苛まれてきたはずだ。
それに耐え切れなくなる前に、防波堤として人と距離を置かざる得なかった。
そう考えるのが、自然ではないだろうか?
ピアノに指を添え、鍵盤を押す。
流れ出すメロディーに、頭の中に流れるオニュヒョンの歌声を重ねて口ずさむ。
こんなに切ない歌もないなと、笑ってしまった。
聴く本人は、この何十倍もだろう。
それこそ涙を流すだけでは足りないんじゃないか。
しかも、もうすぐ梅雨が始まる。
雨が毎日降る中を、先輩はどんな気持ちで過ごすのだろうか?
「・・・一緒にいてあげたいな」
意識せずに零していた言葉に、思わず動揺して、ピアノを弾く手を止めていた。


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