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□君のいない白い空
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生え揃ったばかりの二枚の白い羽根を、忙しなく羽ばたかせるジョンヒョンは、好奇心ばかりが溢れ出る双眸を、足元の無限に広がる景色へと向ける。
自分が育った天界と異なるその場所は、光が存在しない世界だ。
黒一色で統一された世界は、人間の絶望をばら撒いて創造されたと、神様は教えてくれたが、こんなに真っ黒な絶望に、包まれて生きている人間に、ますますジョンヒョンの天使にしては、旺盛な好奇心が掻きたてられる。
神様と大天使たちの長い話よりも、よっぽど自分の目で見た方が、頭にも入ってくるというもの。
百聞は一見にしかず。
恐れ知らずの好奇心が、更なるチャレンジへと呆気ないくらい簡単に、ジョンヒョンを誘惑した。
無知の恐ろしさと言うべきか。
魔界を踏みしめるべく、きゅーん!!っと急下降していたジョンヒョンの視界が、突如ぐにゃっと歪んだ。

「君にこの世界はまだ早いよ」

笑いを含んだ聞いたことのない優しい声がしたかと思うと、一気に意識が濁流へと呑み込まれていく。
頭の中を他人の手によって、ごちゃ混ぜに掻き混ぜられているような、不快感にジョンヒョンは、ぎゅっと目を瞑った。
しかし、目を瞑った途端に、不快感は消え失せてしまう。
わけがわからないままに恐る恐る目を開ければ、自分が寝起きしているベッドの上だった。
「え?」
どういうことだ?さっきまで、自分は確かに魔界の空を飛んでいたというのに。
ベッドに座り込んだジョンヒョンは、夢だったのだろうか?と首を傾ける。
その時、ドアを蹴破る勢いで押し入ってきたキーが、もう既に小うるさい表情で、ぎろりとジョンヒョンを睨んだ。
「ヒョン!!どこ行ってたんだよ?また一時間も行方不明になって!ユノ様のお手を煩わせないでよ!?」
きゃんきゃんと高い声で、最終的には愚痴のような小言までも、ジョンヒョンにご丁寧に贈りつけたキーは、すっきりした表情になると、ユノ様が呼んでたから部屋に行ってよ?と念を押して部屋から出て行く。
そんなキーの様子は、いつも通りなので気にも留めずに、ジョンヒョンは自分の教育者であるユノの元へと足を進める。
住まいの中では、人間のように歩きなさいというのは、神様からの言いつけだ。
いつでも人間界へと降り立ち、任務を遂行できる準備をしとかないといけないらしい。
歩きながらも考えるのは、さっきの出来事が夢なのかどうかだ。
現にキーが、一時間行方不明だったと言ったのだから、魔界に行っていたのは、事実のはず。
ということは、自分をベッドの上に戻したのは、悪魔ということになる。
だが、信じがたい。
今まで教えられてきた悪魔像からは、かけ離れた優しさだからだ。
う〜んと考え込んでいたジョンヒョンの耳に、柔らかく優しい音色のような声が、自分の名前を紡いだのを聞いた。
足を止め、振り返ると天界の美の結晶であり、神様の最高傑作だと称されるユノが、安堵の表情と、苦笑いを混ぜた表情で、ジョンヒョンと目が合うなり溜息を零している。
「こら、冒険マニア。今日はどこまで行ってたんだ?」
金色に近い茶髪の長い髪を揺らして、ジョンヒョンに歩み寄ったユノは、拳で額を軽く小突いた。
「俺、ベッドで寝てたよ」
素知らぬ振りを決め込んで、数秒前に体験した不思議な出来事の顛末だけを述べれば、猫の目のように目を愉しげに細めたユノは、悪戯っ子の悪事を見抜くために、じーっとジョンヒョンの目を見据えてくる。
天使には珍しいユノの黒い瞳を真っ向から見つめるジョンヒョンは、先ほど見た魔界の黒と同じ色をしているというのに、何の濁りもない黒は、こうまでも吸い込まれてしまう色なのかと、感心しながら凝視する。
ユノという天使の瞳には、悪魔よりも恐ろしい誘惑が潜んでいると、密やかに天使たちの間で囁かれている噂を、身を持って実感した。
この瞳は、あまりに魅力に溢れすぎていて、確かに危険だ。

そんな風に、同じ天使ですら見惚れると評判の麗しい兄をしげしげと観察していたジョンヒョンは、ほんの一瞬だけ秀麗なその顔に翳が過ぎるのを、見逃さなかった。
「ユノヒョン?」
敏感に異変をキャッチして、名前を呼んだジョンヒョンに、何故かユノは困った表情をする。
徐に腰を折り曲げて、ジョンヒョンの顔を下から覗き込んだユノは、いつも以上に優しい声で質問した。
「ジョンヒョナ、魔界に行ったのか?」
「え?なんで?」
どうして分ったのか?そう言外に問い掛けるも、ユノはジョンヒョンの疑問に対して答えはくれずに、もう行っちゃダメだからな?と空にたなびく雲のように、ふわりと微笑んで優しく言い聞かすだけだった。



「そうは言われても、気になるんだっつーの」
ユノの優しい忠告も何のその。
ジョンヒョンは昨日と同じ場所を飛んでいた。
ユノがどうして魔界に行ったことに気付いたのかも気になるが、昨日の声の主も気になる。
自分の好奇心を押さえたくば、興味が他に移らないように、もっと刺激的で楽しい話や、人間界のある地上に、実習で行かせくれればいいのだ。
自分のことを棚にあげ、そんな屁理屈を頭の中に並べ立てていたジョンヒョンの目の前に、すっと人影が差す。

「最近の天使は、一人前になる前から堕天志望なわけ?」
魔界の闇に染まったと見紛う漆黒の髪に、自身の背中に生える羽根を彷彿とさせるシミ一つない白い肌は、作り物にしか見えない。
しかし驚くべきは、憎まれ口を叩くその顔だ。
人を誘惑するに相応しい目を引く美しさは、聞くまでもなく目の前にいる人物が、正真正銘の悪魔だとジョンヒョンの直感に訴えかけてくる。
「・・・悪魔?羽根ってないの?」
「人間みたいなこと言うなよ」
やれやれと両手を上げる年齢不詳の悪魔に、ジョンヒョンは、あ!!と声を上げ、指を差した。
「昨日の声と同じ!!」
「ふ〜ん、耳はいいんだね?頭は悪いけど」
感心しきった様子で目を少し見開く悪魔は、確実に自分を小馬鹿にしているというのに、気持ち悪いぐらい美しい容姿のせいか、ジョンヒョンは言い返すことも忘れて、ひたすら見つめてしまう。
うっとりと自分を眺めるジョンヒョンに、悪魔は眉尻を下げ、優しい苦笑を零した。
「ユノに託されてるってことは、お前は見込まれてるってこと。悪魔に見惚れるのは、今だけにしとけよ?」
見込まれる云々、自分の評価をさらっとジョンヒョンは聞き流して、真っ先に気になったことを訊ねる。
「ユノヒョンのこと知ってんの?」
「天使も悪魔も人間も、美しいものが好きなのは共通だからね」
「へー、知らなかった」
「それよりも迎えが来たよ?ジョンヒョン」
何故自分の名前を知っているんだろうか?悪魔ってそういうものなのか?と思いつつ、自分を通り過ぎて遠くを見遣る悪魔の視線を追いかけ、ジョンヒョンも振り返る。
すると、すごい速さでこっちに向って飛んでくるユノの姿が見えた。
「ジョンヒョン!!」
ダメって言っただろ!?と声を荒げて珍しく険しい表情で、自分の肩を掴んできたユノに、ジョンヒョンは素直にごめんなさいと謝る。
いつもなら謝れば、もういいよと優しく微笑んで頭を撫でてくれるユノなのに、今日はしてくれない。
ジョンヒョンの横を通りすぎ、他には目もくれず、真っ直ぐ悪魔に向っていくユノに、ジョンヒョンは背筋を凍らせる。
もしかしてユノは、盛大な勘違いをしているんじゃないか?
悪魔がジョンヒョンをそそのかして、ここまで連れてきたと。
そんな考えが浮かび、誤解を解くためにジョンヒョンはユノの後を追いかけたのだが、予想とは全く逆の展開が目の前で起こった。
「テミンっ!!」
背中を向けた悪魔に、声を張り上げて必死に名前を呼んだユノに、ジョンヒョンは呆気に取られる。
躊躇うように、悪魔はゆっくりと振り返った。
「懐かしい名前。もうその名前を呼ぶのはユノしかいないよ?」
何処か苦しそうに笑いながら言った悪魔は、さき程ジョンヒョンと話していた時よりも、棘のない滑らかで耳心地の良い声で、二人が親しい間柄なのだと、無条件にジョンヒョンは思った。
「俺にとってテミンは、テミンのまんまだもん。変わらないよ?ずっと。テミンが俺のことを変わらないって言ったように、俺の中でもテミンは、ずっとずっとテミンのまんま」
自身の胸に手を当て、穏やかな笑みを浮かべて言葉を紡いだユノに、テミンと呼ばれた悪魔は、また息苦しそうに笑うだけだ。
もう言葉を返そうとしない。
ユノも言葉が返ってこないのを、承知で話しているのか、特に気にも留めずに続ける。
「この子、ありがとう」
ちらっとジョンヒョンに視線を向け、ユノが言えば、その言葉を聞くなり、テミンと呼ばれた悪魔は姿を消した。
何がなんなのか、さっぱり状況が掴めないジョンヒョンの手を引いて、ユノは翼を大きく羽ばたかせる。
立派な白い羽根を持つユノは、ジョンヒョンが一時間掛けて飛んできた距離を、数分で飛んでしまう。
天使たちの住まいである宮殿に、道草もせずに一直線に連れ戻されたジョンヒョンは、自室に帰ることも許されず、ユノの部屋へと無条件で連行される。
絶対にこれは怒られると思い込んでいたジョンヒョンだったが、意外にもユノは怒ったりしなかった。
ジョンヒョンをベッドに座らせ、ユノは冷たい石が敷き詰められた床に膝を突き、跪く。
そしてジョンヒョンの手をぎゅっと強く握り締めると、吸い込まれそうな瞳を更に涙でキラキラと輝かせて、見つめてくる。
「ジョンヒョナ、ヒョンと約束してくれないか?もう魔界には絶対に行かないって」
愛してやまない兄の切望する眼差しに、根負けしたジョンヒョンは素直に頷いた。
「ありがとうな?」
いい子と頭を優しく撫でてくれるユノに、ジョンヒョンは気になっていたことを、恐る恐る問い掛ける。
「ヒョン、悪魔とも友達なの?」
ユノは、人間さんとも動物さんとも友達になれると口癖のように言っている。
普通、天使ならば人や動物は自分たちよりも下級生物だと思って憚らない天使が多い。
神の使いである天使は、神が創ったものという観点では、人間や動物と同じだが、神に仕えられない生物とは、違う種族だというプライドを持つものが多いのだ。
だから、人間界に行き、人間の傍に仕えることを嫌う天使も、意外と多いのが実情だ。
ユノのような考えを持つ天使は、圧倒的に少数派で、希少価値すらついて回る。

「テミンは悪魔じゃないよ?天使だよ」
けれど、ユノはふんわりと微笑んだかと思うと、ジョンヒョンには到底理解できない言葉を紡ぐ。
難解な迷路に迷い込んでしまったような、困惑に困惑を重ねるジョンヒョンの心情を、敏感に察知したユノは、笑みをますます深くして、慈悲深く微笑んだ。
この笑みこそ、一度見たら忘れられないと天使界で評判の笑みである。
その笑みを日常のひとこまとして堪能できる距離にいれるジョンヒョンは、地位など関係なく、それだけで無条件に天使たちの羨望の的だ。
「ジョンヒョナが、約束してくれたご褒美に、教えてあげる」
甘美な囁きが耳を撫でていったかと思ったら、優しくユノの手が、ジョンヒョンの額にそっと触れた。
途端にジョンヒョンの頭の中に、ユノの記憶が流れ込んでくる。
一番最初に感じたのは、気を失うような強烈な痛みだった。
鼻先を劈く焦げた匂いと、細胞の全てをじわじわと丹念に引き千切られていく感覚は、痛覚の全て逆撫でしていく、武者震うほどの激痛だった。
戦慄が全身を突き抜けていき、息が荒くなる。
もう嫌だ!!そうジョンヒョンが思い、狂ったように泣き出した瞬間、映像が切り替わった。
『ユノはいつまでも綺麗だよ?ずっとずっと変わらずにね?だからこそユノは、今でも一番綺麗な天使なんだ。俺にとって、ユノは変わらずユノだよ?』
聞いたことのある声だ。
でも、ジョンヒョンが聞いたものよりも、とんでもなく甘い。
そう感じるなり、人物の顔が視界一杯に広がる。
『刻印がある?見えないよ?』
金髪に青い澄んだ瞳は、天使の中でも浮いてしまう美しさだろう。
人間が天使を思い浮かべるならば、こういう風貌だろうと思える人物は、紛れもなく先ほど会った悪魔だったはずのテミンだ。
『ユノがあんまりにも一人だけずば抜けて美しすぎてしまったあまり、翼を傷つけられた跡なら見えるけど、刻印は見あたらないな。それにね、もしこれが堕天の刻印だとするなら』
けれど、明らかに髪と目の色が違う。
『神様は、もう二度と生まれてこないだろう美しい天使を、自ら殺してしまったことになる』
なぜ?その疑問をジョンヒョンが解き明かす前に映像が途絶えてしまう。
ユノの手が離れていったからだった。
どうして?と目だけで疑問をぶつけるジョンヒョンにユノは悲しそうに目を伏せた。
それだけでも美しい。
記憶の中の天使のテミンが、ユノに言い聞かせるように美しいと、しつこく言う意味が分かる。
長い睫毛を僅かに震わせて、視線を合わせたユノは、儚さに満ちていて、このまま消えてしまいそうだとジョンヒョンは思った。
頼り無い。
こんなにこの人は、脆い人だったろうか?
不安と切なさが胸いっぱいに広がり、満たしていく。
「この羽根は、もとはテミンのものなんだ。自分で羽根を切り取って、俺の背中につけたから・・・テミンはもう一生天使に戻れない」
「それって・・・」
今さっき聞いたばかりの、刻印、堕天という天使にとっては、その音の響きだけで怯え、恐怖に慄いてしまうフレーズが、頭に渦を作った。
ユノも覚悟を決め、すっと顔を持ち上げると、ジョンヒョンの頭の中にある答えを肯定するように、凛とした強さを感じさす表情で頷いた。

「本当なら、俺はここにいない。一回堕天しているんだ」



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