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□Is this love C
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その笑顔が偽りだったのだと、男が気付いたのは、自分の命がなくなる寸前だった。

「あの・・・これは?」
覚えのない融資が交わされた紙には、中国の国家予算の三割に、相当する莫大な額が記されている。
しかも間違いなく自分の名が、契約者として明記されていた。
担保として、土地と保有するビルの不動産ら、全てを銀行に渡す有無の承諾までも、完璧に交わされた書面。
それを前にして、脂ぎっていた男の顔には、新たな皮脂がじわりと滲み出る。


「うちは、犬には興味ないんですよね」
数人の付き人を従え、真正面に座っているオニュが、のらりくらりと脈絡のないように思える話を切り出した。
男は急ぐ気持ちに蓋をして、オニュが何を自分に伝えようとしているのかを、辛抱強く聞く。
「犬は、賢くて人に従順ではありますが、一歩間違えたら怪我を負わされてしまうリスクが伴う。だから家畜となる豚や牛、鳥にしか興味がありません」
「・・・・食べられるものが一番ですからね?」
訳がわからないなりにも同意していれば、場はそれなりにいい雰囲気になると思い、男が安易に返した言葉に、オニュは目を丸くするとにっこりと微笑んだ。
「よく分かってらっしゃる。人間の血となり、骨となる。リスクを伴わず、且つ無駄なく、利用できる。そういったものが僕は一番好きなんですよね」
人にひたすら好感を抱かせるオニュの笑みに、つい手元にある書面を忘れ、男も更に話を深めようとしてしまいそうになるが、ハっとして本来の話にこの辺で戻そうと、遠慮がちに訊ねた。
「それで・・・これは?また何か新しい事業を計画されていると取ってよろしいんでしょうか?名義だけをうちがシントゥアンさんに貸すという形で」
スーツのスラックスのポケットからハンカチを取り出して、額を拭い出した男の言葉は、耄碌した人間特有の自惚れに満ちていて、その体型通り太りに太った丸まるとした食べ頃の豚を彷彿とさせる。
実に惜しい。
ブランド家畜になる品性は、元から感じさせない男だったが、ここまでとは。
餌のやりぞんだ。
というよりも、世界で一番愛おしく可愛い存在と言っても過言ではないテミンに怪我を負わせた時点で家畜ではなく、野犬に成り下がったが、野犬と一緒にするのも、野犬に失礼だと感じてしまう。
犬は、本能で相手の力を感じ取り、服従する習性がある賢い生き物だが、この男にはそれがない。
自分が相手している人間が、どれだけ無慈悲な集団かというのを理解しておらず、自身の力を過信している節がある。
シントゥアンという中国最大勢力のマフィア組織が、自分を頼りにしているとすら感じられる勘違いぶりには、オニュも薄ら寒くなり、悲しいですねと切なげな表情で呟いた。
「は?悲しいですか?」
オニュの呟きを耳聡く拾った男は、話が前に進む気配が感じられない状況に、目を瞬かせた後、決り悪そうにハンカチを動かす。

「いつまで経っても人の形のままで醜い豚の姿の貴方には、我々も愛想がつきたということです。」
瞳が見えない程の笑みを浮かべるオニュの顔を見ている分には、自分が何を言われたのか、男はすぐには理解できなかった。
「良質の豚に育てたと思っていた僕が、いかに愚かだったかを思い知りました。外見だけは立派な豚でも、貴方の中身は豚以下だ。シントゥアンの骨組みに、危うくその脂に塗れた不衛生な肉を取り入れて、今までの努力を水の泡にしてしまうところでした」
澱みなく動く口が吐き出す明確な侮蔑に、男も漸く自分の置かれている事態を理解しだしたのか、持っていたハンカチを絨毯の敷きつめれた床に投げ捨て、わなわなと震える身体で立ち上がり、オニュを見下ろす。
「失礼にもほどがある!!先週、損害を出した分は、そちらに非があるとお宅の組織の人間がうちに貸しという形で、処理してくれと頼んできたではないか?!その補填と思ったからこそ面会してやったというのに。ふざけるな!!」
啖呵を切る男を黙って見上げていたオニュの表情から、すっと笑みが消える。
途端、好々爺然とした年相応ではない、柔和な雰囲気が一瞬にしてオニュから消え失せ、冷やかな殺気がやんわりとだが、怒気となってオニュの周りに溶け込んでいく。
これには、男も刹那怯んだが、それでもここで背中を見せるわけにはいかないと、無駄な負けん気を発揮する。
「間違ってないはずだ。私の言い分は」
いからせていた肩を下げ、再び一人掛けのソファ椅子に腰を落ち着かせた男は、自身が正論だとオニュに向かって再度提示してくる。
「そうです。先週まで、うちはお宅にお願いに上がる立場に、あくまで甘んじさせて頂いておりました。が、わざわざ装っていた人情味を先に反故にしたのは、そちらでしょう?」
言い訳すらも、許さないといわんばかりに語気を強めた断言めいたオニュの口調に、男は咄嗟にひ弱で従順な家畜の仮面を被り直した。
「何を指してそのようなことを仰られているのか、私には理解できていないのですが、これだけは言えます。この国でずっと生きてきた私ですが、国家に背くことはあれど、シントゥアンには絶対に背くことはありません。何かの勘違いをされておいででは?」
豚ではなく、とんだ食わせ物のタヌキだったかと、オニュは失笑を口元に滲ませる。
「言い訳だけは、澱みなく出てくる口と頭。それだけ演技が達者ならば、あの世で白を切り通していけるでしょう?」
すくっと立ち上がったオニュは、どういうことだ!?とまだ猿芝居をし続けて、追い縋ろうと立ち上がった男に、無表情で言い放った。
「シントゥアンは、一介の家畜如きの言い訳に時間を割くほど優しい組織ではない。そのこと自体をお忘れな貴方には、うちの家畜の素養すらなかったというわけです」
それまで、オニュの影のように背後に控えていたカイが、その言葉を合図に男に向って胸元から取り出した銃を向ける。
途端に、ひぃ!!と悲鳴にもならない悲鳴を上げた男は、ソファの上で仰け反り、胸元に手を入れて携帯を取り出そうとするも、身体全体がガタガタと震えているので、手もとが狂ってまごつき、上手く取り出せない。
「この社長室に来るまでに、貴方のご自慢のボディーガードたちには、先に黄泉の国へ行ってもらいましたよ。一人では寂しいでしょうからね?ほんの少しばかりの僕からの気持ちです」
さっきまでの上海語とは異なり、北京語で話し出したオニュに、男の目が見開かれる。
「身元を知らない人間を、僕らが従えるわけがないでしょう?身元証明をするものがなくても、少しの情報で誰の仕業かなんて、検討をつけるのは、造作もないことなんですよ?」
くすりと笑ったオニュは、冷め切った眼つきで、男を見下ろすと、カイにやれと端的に告げた。
無駄のない動作で、男に近付いたカイは、喚く男の口を手で覆い、暴れ動く男の米神に難なく銃を突き付け、何の躊躇いもなく引き金を引いた。
「遺書を引き出しにいれておけ。後、監視カメラの映像を全て消しておくように。テミンの分も」
銃からサイレンサーを取り外しながら、カイは男の手に銃を握らせて、頷く。
「ボディーガードたちは、どうしますか?」
「タヌキもタヌキなりに考えていたらしい。腕っ節が唯一の取り柄のごろつきばかりだから、公安が嗅ぎまわる心配はない。今掘削作業しているビルの土地に捨てればいいさ」
「テミンは、どうして主犯格がこいつだと分ったんですか?」
オニュの指示通り、予め用意していた遺書をデスクの引き出しにいれながら、カイが訊ねれば、オニュの険しかった表情に今度は、少し寂しげな笑顔が過ぎる。
「血筋も関係しているのかな?天性の才能だよ。テミンは、人の悪意には敏感だ。どれだけ屈した振りをしても、それが振りだと見抜ける。なのに、その場では泳がせるんだ」
「血筋?」
カイが疑問を口にすれば、オニュはまだ聞いてなかったの?と逆に意外そうに言い、少し逡巡し、テミンの素性を明かした。
「もともとテミンは、韓国でも有名なエリート一族の息子だ。それも国家権力を手にした」
その言葉だけで、反政府組織という言葉に位置づけられるマフィアと正反対の世界である組織がカイの頭に浮かび上がった。
「国家情報局院」
思わずカイが口にしていた組織名が正解だとばかりに、オニュは曖昧な笑みを口に乗せている。
嘘を語っていると思えないだけに、どうしてそのテミンが、マフィアとなって大陸である中国にいるのか、カイには不思議でならなかった。
それにテミンは、常々オニュと一緒に二人だけで生きてきたとカイに言っていた。
オニュがいなければ、自分は死んでいたとさえ。
疑問が疑問を呼ぶも、オニュはこれ以上は詳しく話す気はないらしい。
「瞬時にそれの存在を思い出して、北京語で話しかけてみたようだ。見事、犯人の男もテミンに釣られて北京語を話し出した。小物のタヌキは同郷の人間で、弱みを握っている人間ぐらいにしか頼まないだろう。大方借金の利息の分をチャラにするから脅せとでも言ったに違いない。金に汚いが腹いせをしなければ気が済まない男と言ったら、これぐらいなものだろうし。優位な立場が好きな人間は多いが、身の程を知らない人間で絞れば、自ずと答えは出る。顔に泥を塗られたと、その日のうちに仕掛けてくる粘着質なのを鑑みても、これが考えそうなことだ」
話しながらも、もう用済みとなった死体には、何の感慨もないようにオニュは、振舞う。
死体すらこの場には、ないという錯覚に陥ってしまう。
こういう非情さを目にすると、ふんわりとした穏やかさが、いかに人工的にオニュが作り出しているのかが分る。
それだけ偽り、人を欺くことに長けている証拠だ。
そんなことを考えながら、カイがオニュを見ていると、視線に気付き、向き直った。
にっこりといつもの笑みを浮かべて、こっちが本題であり、大事なことだとばかりに、打って変わって優しいトーンでオニュは話し出す。
「この仕事が済んだら、カイは暫くテミニを見張るように」
それ以外の仕事はさせないと言外に言っているオニュに、内心を見透かされ、まるで丸裸のような心地になる。
ポーカーフェイスながら、そわそわと心だけは落ち着かないカイの心理をお見通しだとばかりに、オニュは更に笑みを深めて、肩を軽く叩いてきた。
「あの怪我じゃ暫く銃を持てないから、僕も心配なんだよ」
決してカイが望んでいるから命令を下したわけではないと、匂わすような言葉までも口にして、後は任せたと颯爽と去っていく背中を見つめた。
何年と一緒にいても腹の底が読めない組織のトップは、自分のテミンへの気持ちを何処まで知り、その上で利用しているのか、気になってしまうが、今だけはその好意を素直に受け入れようとカイは思う。
暫くは、テミンは身動きが取れない。
本来ならば、あの身軽なテミンが弾丸で怪我をするなど考えられないが、現に今、テミンは怪我をして、二人で暮らす部屋に一人静養している。
カイが迎えに行った際に、ドジったと笑っていたが、果たして本当にそうなのか?とカイは疑問に思っていた。
一人でいたならば、勘のいいテミンは容赦なく、もっと早い段階で自分を狙った男を殺していたはず。
それに素人相手に、怪我をするヘマを犯すことは絶対ないはずだ。
そう考えると、誰かしらをテミンが庇ったせいでの怪我としか思えなかった。
そうなると、誰を庇ったかという疑問も同時に浮かび上がってくるのだが、そこでいつもカイの思考回路はストップしてしまう。
テミンには、オニュや自分以外に身を呈してまで、庇う人間がいないからだ。
そう結論は出ているはずなのに、嫌な予感が渦を巻いて、仮定を引っ張り出してくる。
自分たち組織以外の人間に、テミンが特別だと思う人間が居たならば、と。
途端、えもいわれぬ嫌悪感が、どっと溢れ出て、カイの気分を一瞬にして気持ち悪くしていく。
それだけは、どうあっても想像したくない現実だった。



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