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□Is this love B
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久しぶりに袖を通すスーツは、あまりにしっくり来ず、違和感すら感じてしまう。
つい一年ほど前までは、毎日着ていた戦闘服だったはずなのに。
全身鏡に写る自分を見て、ユノは溜息と苦笑を漏らした。
「まるで七五三だ」
「どう見ても、一流ブランドのモデルだろ?」
世間の男を敵に回す嫌味だと、憮然とした口調でユノの自己評価を撤退させたホジュンは、前に回ると、たれ下がったままのネクタイに手を伸ばした。
「えー・・・。ホジュニヒョンは、スーツの方が似合ってるね?」
「まぁ俺は老け顔だからな」
「そういう意味で言ったんじゃないのに」
どうしてそんなに卑下するの?とばかりのユノの抗議する視線に、お前と居て卑下しない奴はいないと、ひっそり心の中だけで、ホジュンは呟く。
ネクタイを絞め終えたホジュンは、よし!とユノの胸を軽く叩いた。
「ありがとう。自分でするより断然綺麗だ」
鏡を見て、嬉しそう微笑むユノが自分を気遣って言ってるのではなく、本心から言っている言葉だと言うのが、よく分かる。
逆に社交辞令じゃない純粋すぎる言葉は、ちょっとした事でも、無性に照れ臭くなってしまうというもの。
遣える側になっても以前と変わらないユノの態度は、褌を締め直そうとしているホジュンからしてみれば、戸惑いすら感じてしまう。
言い訳のようになってしまうが、それが理由で敬語もなかなか使えない。
「いちいち褒めなくていいよ。一応これからは、お前の秘書の立場なんだから」
クロークインクローゼットの中に置かれたシューズボックスから、革靴を一足取り出して、ユノの足元に置いた。
ユノが靴を履くために、手を出して支えようとするも、ユノはその手を無視して、靴に足を突っ込む。

「確かに働いてもらうけど、もうヒョンは家族だよ?ジョンヒョンもそのつもりで接してるだろ?」
なのに、これだ。
ユノは無条件で甘やかそうとしてくる。
いや、語弊があるかもしれない。
甘やかそうとしていない。
無意識に、なのだろう。
「なら、怒るってこともしろよな?家族なんだから」
過去の辛い経験したであろう人間には、その分甘くなってしまうのが、ユノの最大の欠点なのだと、ホジュンに色々な仕事を教えてくれた先輩秘書であるミノは、微妙な面持ちで呟いていた。
その言葉を言われるまでもなく、ホジュンも何となく気が付いていた。
ユノの最大の長所でもあり、欠点だと言えるだろうその癖を。
同時に、その優しさは、ユノが他人にも求めているだろう部分であるのだというのは、勝手なホジュンの憶測であり、認識だ。
自分の手に補える範囲での優しさを求めて、それ以上の優しさはやんわりと返す。
それはつまり、裏を返せば誰にも心を許せない自分の心を許してくれというユノからの懺悔でもあるのだ。
初めは生温い奴だと、ユノを見くびっていたホジュンだが、いかに自分の審美眼が腐っていたのかを思い知った。
知れば知る程、チョンユンホという人間は、分らなくなる。
けれど、同じくらい傷を持っているということも、何となく察せられる。
しかし、その傷に触れることを許さない。
罪悪感を伴うくらいの優しさで、親しい人間たちの目を手で覆い隠す。
この温かい手を避けてまで、誰もユノの傷を触れようとは思わないのだろう。
与えられた優しさが、骨の髄まで染み渡り、麻薬のように心を雁字搦めに絡め取っているからだ。
ユノという人間の傍から離れた後、どうすれば良いのか、わからなくなるのが目に見えて、その瞬間恐怖に摩り替わり、本来の目的を刹那見失ってしまう。
他人にはそれがあるが、身内同然のミノや血縁のジョンヒョンにはそれがないので、余計にもどかしく思っているだろうことは、容易く想像がつく。
「髪は、上げないのか?」
目を見開いた後、何かを言おうとしたユノを制するように、ホジュンは話を変えた。
さらとした手触りのいい黒髪を、指先に通しながら聞く。
「えっと、今日はいいかな。このまま下ろしておく。じゃないと会ってくれないんだよね」
どうやら今から会う約束をしている人間は、ユノが前髪を上げているだけで、面会に応じてくれなくなるらしい。
「え?まさか・・・変態オヤジか?」
ユノの戸惑ったような、困ったような様子に、ホジュンも思わずストレートな言葉で、問い掛けてしまっていた。
ユノは、パチパチと目を瞬かせると、豪快に口を開けて笑う。
目尻に皺を刻みつけて笑うユノからは、閉ざされた心の闇など、一切感じさせない。
無邪気な可愛さが、ほんのりとホジュンの心を温めていく。
「まさか。どっちかっていうと変人の美形かな?」
ユノの比喩が実に的を射ていると、ホジュンが納得したのは、この三十分後だ。



「ユノ、もっとこっちに来い」
見慣れてきた部屋が、その登場人物によって、一気に溢れんばかりの華美さで、がらりと雰囲気が変わった。
花瓶に生けられた薔薇よりも、この男の存在感は強烈であり、鮮明な極彩色のようだ。
真っ赤なロングコートに、ツバの大きい黒い帽子を被った男は、名をキムヒチョルと言う。
どんな美男子でも着こなせないだろう派手と言えばいいのか、個性的と言えばいいのか分からない独特のファッションを、すんなり着こなすだけのオーラと雰囲気が漂う美形だ。
特に、二重の幅が広いつり目は特徴的で、初対面であの目と目を合わすのは、それなりの勇気が求められる。
眼力が異常に強く、それだけはなく凄みもある。
ただの一般人ではないというのが、ホジュンですら直感で分ってしまうくらいだ。
表向きは、世界的な総合建設会社の最高責任者としての顔で知られているが、裏の世界でもキムヒチョルは有名人である。
実は、ヒチョルは韓国の裏組織を牛耳るトップで、ユノとは腐れ縁らしい。
「違うって、ここだ、こぉーこぉっ!」
最初は、ヒチョルの真正面に座っていたユノだったが、こっちに来いと言われ、彼の隣に座ったのだが、今度は自身の膝の上を女性と見紛う美しい指先で指し示されて、苦笑を漏らす。
「ヒョン、ヒボマと一緒にしないでよ。俺じゃ乗れない」
「んなもん、わかんねぇだろうが」
伸びてきた手によって、ユノは強引に引き寄せられる。
しょうがなく、ヒチョルの膝に跨ろうとする。
「うむ。お前も分る男になったか」
が、腰を落す寸前に聞こえて来た満足気な呟きが、ユノを改めさした。
自分が取ろうとしていた体勢のおかしさに気付き、光の速さで足を閉じる。
考えた末に、ヒチョルの膝に横座りしたユノに、当然のように伸びて来た指先が、髪を掬いだす。
まるで飼い猫をじゃらすような手つきと、楽しそうな表情を晒しているヒチョルに、ユノは目を眇めた。
「やっぱりヒボムの代わりにしてんじゃん」
「あ?異議があんなら、跨って乗れ。なら、人間扱いしてやる」
猫は跨がれないからな?とニヤリと笑うヒチョルは、美形であるが、その発言はそこら辺のオヤジと変わらないじゃないか?とホジュンは思う。
「そこまでしてもらって、不満を言うのはあんまりですよ?」
「お、シウォンじゃねえか。元気そうだな?」
ヒチョルとユノの分のコーヒーを運んできたシウォンは、長く一緒にいるのに自分は、頬へのキスすらまだ許してもらえないのだと、嘆きながら御影石で加工されたローテーブルに、カップとソーサーを置いていく。
これには、ユノがうんざりしたように溜息を吐き、反論する。
「お前もここまで来たらスキンシップしょうとすんの諦めるとかいう考えはないわけ?」
けれど、爽やかな笑顔を浮かべた部下は、さもこの考えが常識だとばかりに言い返してきた。
「ユノが拒否するのを諦めたらいいのでは?」
そのケロっとした様子を見て、ユノの眉間に深い皺が寄るなり、ドンッ!と身体が揺れて何故かユノは、ソファの上にヒチョルによって転がされていた。
身を起す暇もなく、上から覆い被さってきたヒチョルによって、軽いキスを唇に施されたユノは、離れていく端正な顔を大きく見開いた目で見つめる。
「お前が優しく逃げる隙を、こいつに与えてやってんのが悪いんだ」
その手馴れた早業に、鳩に豆鉄砲を食らったような顔で、唖然と見ていたシウォンとホジュンに向かってヒチョルが敗因を述べれば、ガバっと勢いよくソファに座り直したユノは、大きな声で叫んだ。
「ヒョン!?余計なこと教えんな!!」
シャー!とまるで猫が毛を逆立てて、怒っている様と丸被りなユノの姿に、ヒチョルは喉の奥で笑う。
「いやいや、教えてもこいつは絶対やんねーよ」
そうヒチョルが言っても、ユノは全く信じていないのか、鋭く睨みつける視線を送って、ヒチョルを非難してくる。
これには、シウォンについ同情して、ヒチョルはチラリと視線を送った。
すると、眉を下げて笑うシウォンを目にして、ますます同情してしまい、ついついヒチョルは介添え人のような気分で口を挟んでいた。
「んなもん、一回のスキンシップよりもお前の傍で一生居るのが大事だからだよ、こいつにとっては」
ヒチョルが言った瞬間、あっと小さな声を上げたユノは、気まずそうにシウォンに視線を送る。
部下の心を理解してやれていない不甲斐なさが、黒目がちの瞳から切々とだだ漏れている。
「お、今ならキスの一つくらい受け止めてくれそうだぞ?」
茶化すヒチョルの声に、シウォンは苦笑を漏らしながら、ユノの頭をポンと軽く叩くと、部屋から出て行く間際、自身の目を指を使って釣り上げた。
それは、いつも自分に不機嫌な顔を晒すユノが好きなんだと言うサインで、シウォンの出来すぎた優しさが、更にユノの胸を複雑にしてしまう。
パタンと閉ったドアをじっと切ない表情で見つめるユノの肩を抱き寄せると、ヒチョルは再びさらさらと指の間から零れ落ちる黒髪を弄びながら、優しくユノに言い聞かす。
「気にすんな。あいつは、お前とのそのやり取り自体をスキンシップだと思って、楽しんでやってんだから。次から無理して受けてやったら、それはそれであいつが傷付くからやめてやれよ?わかったか?」
小さな頭が素直に上下したのを目にしたヒチョルは、ユノが落ち着くために一呼吸置くと、話を戻した。
「刺された箇所は、もう治ったのか?」
「やっぱりもう耳に入ってたんだ?」
「北京ではそれなりに情報はもう回ってる。穏健派のアポストロデディーオがついに牙を剥いたってな。首席はどうか知らないが、首席側の人間が怯えてる」
シントゥアンが全て企てた事件だと言っても、今は誰も信じてくれないのが実情だった。
中央軍事委員会首席が銃密売に関与して、自殺に見せかけ殺された事件は、いつしかアポストロデディーオが首謀者という疑いを持たれている。
ウニョクとドンヘを中央軍事委員会首席を襲った少年グループの元へ向かわせたのが、今となっては最大のミスになっていた。
仲間が次々に殺されていくのを、目にしていた生き残りの青年は、半狂乱だったのだろう。
そこにウニョクとドンヘがタイミング悪くというか、シントゥアンの狙い通り向かってしまった。
陽の光が差す中で、まさかの銃撃戦になり、近くの地元住民によって、警察に通報されてしまい、目撃者も多数作ってしまった。
その少年グループの一人が、全く関係のない友人にアポストロデディーオのトップを刺してしまい、脅されているという事実も、酒に酔った状態で話してしまっていたようだ。
勿論、ユノが彼らを脅すような真似をするはずがない。
シントゥアンと言うよりも、ユノを助けた青年がアポストロデディーオを名乗って、彼らを脅して、中央軍事委員会首席を殺させたのだろう。
よく出来た見事な青写真だと、拍手したい。
首席を疎んじる党員には、現在の政権への国民の反感感情を煽る材料を手向け、国家主席側には信頼していた犬は、狂犬よりも性質の悪い牙を剥く獅子だったと思い込ませる。
「んで?お前は、俺に何の頼みがあって呼び寄せたんだ?」
「そこまで把握してるなら、もう分ってるだろ?」
口元を僅かに歪め、困り顔で笑うユノは、どうやらヒチョルがいつものように、用件を分かっていて分らない振りをしていると勘違いしているらしい。
これには、ヒチョルも目を丸くする。
目に入れても痛くないくらい可愛いあまりに、虐めすぎるのも考えものだなと、密かにヒチョルは反省した。
「え?本当に分かってないの?」
意外そうに言われ、ヒチョルは苦笑を漏らす。
「俺は神様じゃねーぞ?勘違いしてねぇか?」
「神様だなんて思ってないよ。宇宙人とは思ってたけど」
「ほぉ〜よく分かてんじゃねえか?なら、これもついでに覚えておけ。宇宙人にもな、人間を観察する以外にも仕事があるってことだ」
グシャっと髪を掻き混ぜながら、ユノの小さな頭を鷲掴んだヒチョルは、ポイっとゴミを捨てるようにユノの頭も放り投げた。
脳みそが揺れるほどではないが、多少なりとも三半規管にダメージは受けるも、忙しい合間を縫って、わざわざ来てもらってる事実があるので、揺れる視界の中でユノは本題を切り出した。
「上海で進んでるディズニーリゾートの計画が途中で頓挫した理由をヒョンは、知ってる?」
「きな臭い匂いだけは感じたが、詳しい理由は知らないな」
いくら自社が入札していないとは言え、業界最大手のヒチョルの所にも、あれだけ大きな計画が頓挫した理由が流れてこないのは、どう考えても可笑しい。
その確認が取れ、漸く自分の仮定に明確な自信が持てたユノは立ち上がり、ホジュンの顔を見る。


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