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□空嘯く子猫はワルツを踊る
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「ユノ、自分の顔も知らない妹に会いに行ってどうするんだ?」

ユノと呼ばれた男の名前は、チョンユンホ。
すらりとしたモデル体型に見合った、それはそれは綺麗な顔をした男だ。
アジアンビューティー。
そんな形容詞がしっくりとくる。
だからと言って、決して男らしくないわけではない。
細い体躯ながら、しっかりとした筋肉が見て取れる。
けれど、何処か儚げで危うい印象を漂わせる彼自身の雰囲気のせいか、中性的な印象をも抱かせる。
今も、同居人のキムジェジュンが意見しているというに、全く耳を貸さず遠くを見つめて、衣服を身につけていくユノの横顔は、憂いを帯びていて、見惚れてしまう儚さが咲いている。
そんなユノに、数秒前に口した言葉も忘れ、キムジェジュンは見惚れてしまっていた。
ハッと我に返り、再び意見しょうとしていた言葉は、先に言葉を返したユノによって、遮られる形になってしまう。


「幸せに暮してるかどうか、確認したいだけだよ?」
着替えを終えたユノは、必要以上に心配するジェジュンに向き直ると、にっこりと微笑んだ。
しかし、ジェジュンは全くユノを信じていないと言った様子で、訝しげな目を据え、彼が自分を誤魔化す時によく目にするその笑みを一蹴するのであった。
「シム家の養子になっているのを知らなくても、お前は行ったのか?」
「ジェジュン」
はぁと深い溜息を吐き、眉尻をこれでもかと下げるユノは、ポンポンと赤子の背中をあやす様な手つきでジェジュンの肩を叩いた。
「職業病だぞ?それ。お前が優秀な検事なのは知ってるけど、親友にまでその優秀さを見せ付けなくていいから」
「失礼な!!俺はお前が心配なだけだ!!昔から無鉄砲で、ボンボンだった癖に正義感が強くて、そのせいでわざわざ歩むはずじゃなかった棘の道を歩くことなったんだぞ!?」
こうなると、親友の重たい愛ゆえの過干渉が始まるのを長い付き合いで熟知しているユノは、喚きたてる口以外は、誰が見ても美丈夫なジェジュンをぎゅっと抱き締める。
「ジェジュンア、無茶はしない。約束する」
鼻に掛かった甘い声が、的確にジェジュンの無防備なところを鷲掴む。
手練手管、そんな言葉が思い浮かんでしまうくらい、ユノの甘え方は男心をしっかりと擽る。
「くそ。その言葉、しっかり覚えておくからな?約束破ったら、今度こそ海外挙式だかんな?俺と」
「こんなお古の使い回しでも良いって言ってくれるのは、ジェジュンだけだから期待しとくよ」
そう言って笑うユノに、ジェジュンの心は痛みで疼いた。
けれど、そんな感情をおくびにも出さずに、ジェジュンは快活に笑い、料理が出来ないお前の貰い手は俺しかないだろ?と言いながら、ユノを玄関先まで見送った。
「ジェジュンの飯って、その辺の飯屋より上手いから、俺はめちゃくちゃ幸せものだよ?」
扉が閉まり、ユノの気配が遠くに感じるなり、ジェジュンは溜息を吐き出す。
「可愛すぎるのも、綺麗すぎるのも考えもんだな・・・。御曹司でも、立派な男娼になれちまうんだから」





ユノは、モッズコートのポケットから、四つ折にされたA4用紙の束を取り出す。
チョンスジョン、ならびにシムスジョンに関する調査記録というタイトルから始まったそれを捲り、成均館大学在学中と書かれた文字を確認すると、ユノは地下鉄の駅へと向かいながら、空を仰ぎ見た。
今日の朝まで降り続いていた雨のお陰で、空気中の埃が洗い流されているせいか、日差しがいつも以上に眩しく映る。
「母さん、遅くなったけどスジョンに会ってくるね?母さんがスジョンを託した子にも、会ってくるよ」
空の先に、天国があるだなんて想像にも似た夢は、遠い昔の幼い日々だけ信じてた。
亡くなった祖先を思う時は、空を見上げたりしていたけれど、もう何十年とそんなことしていない。
なのに、今日は無償に天国があるのだと信じたくなった。
妹に会うと決めた今日の空が、祖先の人たちが見守ってくれているかのように、あまりにも綺麗だったからだ。



韓国財閥四強時代に幕を閉じたのは、今から二十年前の話。
ユノとジェジュンは、当時十六歳だった。
チョ家、シム家、チョン家、パク家と分野は違えど、韓国経済を支えてきた四本柱の一つであるチョン家は、何を隠そうユノの生家だ。
だが、二十年後の今、チョン家という財閥は、もう存在していない。
チョン家の企業は、全てシムの名に様変わりしているものの、今も尚、韓国経済の礎として変わらず息をしている。
そう、二十年前チョン家は、シム家によって財閥の地位を退けられたのだった。





ユノの目が、大学の正門の文字を認識できる場所まで来た時だった。
歩く自分を追い抜いて行った車が正門の位置で止まったのだ。
プジョーの黒い4WDから、学生と思しき少女が助手席から降りてきた。
「オッパ、ありがとう」
ドアを閉めずに運転席にいる誰かに、お礼を言う彼女は、スキニーデニムにシフォンの白いシャツと至ってシンプルな出で立ちだからこそ、スタイルの良さが際立っていた。
長い黒髪が風に揺られるたびに見える横顔は、芸能人顔負けの美しさと言える。
「帰りも迎えに来てくれるんでしょう?」
甘え強請る仕草と、何百枚と探偵から送られてきた写真をユノは、頭の中で重ねた。
重ねるまでもなく、彼女の容姿は亡き母親にそっくりだったが。
「オッパ、どうしたの?」
運転席が開き、オッパと呼ばれた人物が車から下りてきた。
芸能人が二人になった。そう純粋に思えてしまえる美貌の青年が、不思議そうに呼びかけるスジョンを無視して、ユノの方へ迷い無く歩いてくる。
「スジョンに御用ですか?」
無心にスジョンに見入ってしまっていたせいで、自分が不審者に勘違いされたのだと気付いたユノは、どう乗り切ろうかと考えを巡らせる。
「オッパ、もう何?」
美青年と間違いなく称せる彼の後を追って、スジョンが隣に立ち、腕に腕を絡ませる。
そして、ちらっとユノを一瞥したスジョンがオッパの知り合い?と首を傾け、訊ねる。
お前のことずっと見てたんだよ、バックミラー越しに確認したと言われ、変質者扱いされてしまうんだろうなとユノは、内心苦く笑ったが、思いもよらない言葉が耳に飛び込んできた。
「ああ、お世話になってる人だ。お前は、いいから学校に行ってきなさい」
予想していなかった展開に、内心ユノが瞠目しているの余所に、スジョンはにこっと笑みを浮かべるとユノに一礼して、オッパ、迎えに来てよ?とオッパと呼ぶ彼に、念押しすると軽やかにキャンパス内へと走り去っていってしまう。


「車、乗ってください」
スジョンの後姿を名残惜しげに、ついユノが見つめてしまっていると、自分よりも10は年下に見える青年が、端的に促す。
断る理由もないユノは、彼の後について車まで歩くと、女性をエスコートするように助手席のドアを開けられた。
「ありがとう」
一応礼を言い、素直に乗り込むと、運転席に乗り込むなり、青年はアクセルを踏んだ。
「さっきは、すみませんでした」
まだ出会って数分しか一緒にいないが、予想を裏切る言葉ばかりが、青年の口から発せられ、ユノは戸惑いを隠しきれず、苦笑を浮かべた。
「謝られることしてないですよ、えっと・・」
本当は、青年が誰なのかユノは知っていた。
名前は、シムテミン。
ユノの母親が彼にならと、スジョンを託した人間だ。
当時、彼はデーターによると八歳だった。
自身の余命が幾ばくもないと感じたユノの母親が、天涯孤独になってしまうスジョンの身を案じた際、彼が自身の妹にすると名乗りを上げてくれたのだと言う。
ユノは、殺人の罪に問われ、刑期を全うしている最中で、父親は、多額の保険金目当てのために自殺した後だったので、藁にも縋る思いだったのかもしれない。
「シムテミンです。貴方は、チョンユンホさんですよね?」
驚きのあまり、じっと運転するテミンの横顔を凝視してしまうユノ。
自分の素性がテミンにバレているとは、夢にも思わなかったからだ。
「スジョンと似てる。貴方のお母様にも」
信号に引っ掛かり、ブレーキを利かすなり、テミンはユノに視線を向けると、柔らかく微笑んだ。
「美形一家ですね?さっきは遠くて、ちゃんと見えなかったので、またスジョンのストーカーかと・・・申し訳ありませんでした」
物腰柔らかい言動に、嘗ての恋人であり、親友であった彼の兄を一瞬だけユノは重ねてしまった。
似ても似つかない容貌のはずなのに。


「いいえ、いいんですよ」
それだけ貴方に可愛がってもらってるってことですからと言いながらユノは、先程の残像を振り払うようにフロントガラスに映る風景を見据えた。
「スジョンを迎えに来られたんですか?」
「いえ・・・・幸せになってくれているかどうか、気になって。でも心配なんていらないのは分かっていたんですが、どうしても気になってしまって」
本心は、一緒に暮したい。
しかし、自分の職業を思うと、そうはいかない。
それにスジョンは、生き生きとしていた。
テミンを本当の兄のように慕い、幸せで堪らないと言った輝きに満ちていた。
それを壊す気は、ユノには毛頭なかった。
しかしユノの横顔には、明白な淋しさがありありと浮かび上がっていた。
翳りを感じさせる表情を、横目に見ていたテミンは、車を徐に路肩に止めた。
「スジョンには、ちゃんと言ってあるんです。僕らには血の繋がりがないと」
唐突な告白に、ユノは目を丸くしてテミンの横顔をただ見つめるしかできない。
「そしたらあいつ、こう言いました。私の本当のオッパは、どんなカッコイイ人なのか楽しみと。またクラスメイトが嫉妬するんだろうなって」
真っ直ぐ育ってくれたのだ。
そう想うだけで、テミンへの感謝が堰を切って溢れ出した。
ありがとうございます。その言葉しか持ち合わせていないように、ユノはひたすら感謝の言葉を述べていた。
「いつでも会いに来てやってください」
とても優しい声色と共に、伸びて来たテミンの手が、ユノの手を包み込むように握り締める。
けれど、この好意を受け止めることは決してユノは出来ない。
テミンの兄の幸せのために、自分は日陰を歩むことを課せられているのだから。





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