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□憂鬱なハート
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二重関節は、バレエリーナにとって、利点でもあるが、利点ばかりではない。
例えば、胸が普通の人より普段から反れるため、その分腰に負担がかかり、腰を痛めやすい。
足の甲が前に出すぎてしまい、美しいトゥの立ち姿が逆に難しくなる。
関節が柔らかすぎて、ピルエット(片足軸として同じ場所で回転する技)のときに上手く回れない。
そう言ったデメリットを一切感じさせないユノの二重関節の四肢は、まるで本物の妖精のように軽やかに舞う。
白一色で統一された衣装も、ユノ自身の清廉なイメージによく似合っていた。
その人間味のない姿に魅せられたテミンが、少し近付き、手を差し伸べれば、身を翻して床と水平に足を広げ、高い跳躍でひらりとすぐに距離を取る。
つま先で優雅に着地したユノは、ピルエットをくるくるくると軸のブレを微塵も感じさせない美しさで、軽々と四回転した。
その姿はまさに、湖の水面につま先をついて、遊びながら歩く妖精のようで、美しさと愛らしさに溢れていた。
ユノに引き摺れるように、テミンもまた現実の欲望を踊りに乗せ、情欲に耽る牧神を演じた。




「ユノ、可憐だね?いいよ、凄くチャーミングだ」
東洋人は比較的、若く見られがちなので、フォーサイスでなくてもよく使う形容詞だ。
男のユノにチャーミングと言いたくなる気持ちは、妖精に扮して踊るユノを見れば、誰であったとしても尚更納得するだろう。
「けど、少し解釈を変えたかい?この妖精は、結局好奇心よりも最終的に不安や恐怖が勝って逃げるが、君の表情を見ていると牧神が愛しい存在だが、自分は妖精だからと無理に拒んでいるように見えるがね」
汗を拭きながら、その言葉を聞いていたテミンは、なるほどなと納得する。
だから自分もあんなに必死になって、ユノを求めたくて仕方ない感情が踊りながら溢れてきたのかと。
ユノの世界観に、どっぷりと見事に引き摺られていたわけだ。
やっぱりユノは、才能すらも甘美な毒のようだと、テミンがこっそり笑っていると、フォーサイスに抜け目なく見られていたのか、他人の悪い笑みを浮かべられた。
「テミン、君もそうだ。もっと肉欲だけを求めなければいけないのに、君はフェアリーユノに恋をしているようだった。これでは、牧神の午後ではなく、演目をロミオとジュリエットか、椿姫に変えるべきだな」
フォーサイスの容赦のない評論は、テミンの図星を鋭角に抉った。
やはり偉大な人の目は、誤魔化せないかと、テミンはすみません、気をつけますと言葉を返す。
「君らだけ、今日は居残りだ。私も付き合うから。少し休憩しなさい」
そう言って、クラシックの演目であるドンキホーテの指導に戻っていくフォーサイスを見送ると、テミンとユノはレッスン室を出て、団所有のビル内にある食堂に向かった。
各々、料理を手にして、テーブルにつくと同時に、全く同じタイミングで溜息を吐いていた。
二人で顔を見合わせた後、クスクスと笑う。

「なんでユノが溜息?」
「テミンこそ、真似すんなよ」
「真似っていうか、フェアリーユノに恋してしまったからこその溜息なんだよ?牧神テミンの」
冗談を笑ってくれると思ったはずなのに、ユノは一切笑わない。
それどころか一瞬真顔で固まり、再び溜息を零した。
「ユノ、どうしたの?」
概ね褒められていたユノが、溜息なんておかしい。
だいたい自分は、ユノの世界に引きずり込まれすぎてしまい、警告めいた注意を受けて、落ち込んでも仕方ないのに。
ユノには、落ち込む要素がテミンにはないように思えたのだ。
少し考え込んだ後、ユノは自分に向かって身を乗り出して心配そうな顔をしているテミンを、ちらっと一回見てから、躊躇いぎみに話出す。
「あのさ、」
「うん?」
じっと待っていても、続きが出てこない。
そんなに言いにくいことなのか?とテミンが思っていると、ユノは自棄になったように、フォークを掴むと、サラダのプチトマトにブスっと突き立てた。
その勢いのままに、テミンが耳を疑いたくなるような言葉を紡ぐ。
「お前って、どうやって自慰してたんだ」
一瞬何を言われたのか理解できなかったテミンだが、薄っすら頬を染め、チラチラとこっちを窺い見るユノの恥じらいを含んだ表情で、何となく理解できたので、そういうことかと唐突な質問の意味に合点がいく。
自分が牧神を演じるには、エロティズムが足りないと言われたことに、ユノは不安を抱いているのだと。
一生演じられない役が出来てしまうということほど、エトワールの地位に立っている人間にとって恐いものはない。
流石、探究心のユノだとテミンは、改めて親友を誇らしく思い、敬愛の眼差しを添えながら、恥かしがるユノを気遣って、なんてことないと言わんばかりに平坦に答えた。
「どうって、普通に。ユノだってするだろ?やり方なんてみんな同じだと思うけど」
「するけど・・・なんか見たりするのか?」
「昔はパソコンでAV見たりしたよ?」
「テミンが!?AV!?」
ひっくり返った声を出して驚くユノに、こっちが驚いてしまうとテミンは苦笑する。
「普通だろ?俺をなんだと思ってんだよ」
「どんなの見るんだ?」
今度はユノが身を乗り出して、推察するような視線を向けてくる。
「そういうの聞く?俺の趣味知ってどうすんの?フェアリーは下界に塗れてはいけませんよ?」
言いながら、テミンはカレーのデザートについていた苺のゼリーを、ユノのトレーに乗せてやった。
目をキラキラさせて喜んだユノだったが、すぐにしょんぼりした顔になり、唇を尖らせて消え入りそうな声で言うのだった。
「だって、俺、見たことない」
「ユノ、本当にフェアリーだったんだね?」
しみじみと呟いたテミンの肩を、馬鹿にすんなとユノは小突く。
「AVってそんなにいいの?」
心底真面目に問われて、自分の趣味を顧みる。
だいたいテミンが選ぶものは、女優重視だ。
身体が柔らかく、手足が長い子。
背が低い子よりも高い子。
そして絶対鼻筋が高く整っていて、唇が色っぽい綺麗な形をしている子が多い。
そこまで考えて、ぎょっとした。
それは今まさに隣にいるユノに、見事なまで当て嵌まっている。
自分の無意識下の恋心は、ここまできていたのか?と慄く。
流石に、こんなこと面と向かって本人には言えないので、テミンはさらっと話題を流すことにした。
「まぁ、付き合ってる子がいないときは便利じゃないかな?誰でも男なら世話になってるもんだし。そのAセット美味しい?」
カレーを掬いながら聞くと、ミラノ風カツレツを口一杯に頬張ったユノが、うんっと笑顔で頷く。
話は逸れたはずだと、内心ホッとしていたテミンは、カレーをかき込む。
「週に何回くらいするんだ?」
しかし、カツレツを呑み込んだユノが、精通していない子供がするような質問をしてきて、カレーを噴き出しそうになった。
「まだ続けるのかよ、その話」
スプーンをカレー皿に投げ置いて、顔を手で覆ったテミンの肩に、顎を乗せたユノが至近距離で、じっと顔を見つめる。
視線の気配を感じたテミンが、そろっと指の隙間からユノを見た。
ばっちりかち合った視線の先のユノは、いつもの切れ長の理知的な瞳ではなく、何だか丸々としたクリクリの愛らしい瞳で自分を見ていて、無駄に可愛いと思いつつ、テミンは再び手の指を閉じて隙間を無くす。
すると、ユノ得意の愛嬌攻撃が始った。
「テミニ〜、なんで教えてくれないんだよぉ〜親友のピンチなんだぞ?」
いつもよりも、鼻に掛かった声は、それだけで冷たい印象を持つユノの美形を可愛く変身させる。
分っていてやってるんだから、性質が悪い。
「今は、親友じゃない。ライバルだから。それに何回してるとか、数こなせば牧神が踊れるってわけじゃないから」
顔を覆っていた手を外してユノを見れば、しょんぼりと項垂れながら、苺のゼリーを突いている。
子供よりもよっぽど純粋なようにユノは見えるが、実際はチャンミンという恋人と、そういうことをしているのだ。
考えたくないことだが、考えてしまうというもの。
想像を巡らせるまでもなく、今日のユノはレッスンに来た時から、腰を擦るように手をよく腰に置いていた。
昨日はきっと、その行為をしたのだ。
声も少し掠れているし、随分長い夜だったのだろう。
踊ってもいないのに、そういうユノとチャンミンの俗っぽい行為を考えると、心臓がドクドクと激しく脈打つ。
その割に、身体は一向に熱くならず、寧ろ冷え切っていく。
指先の末端神経までも、凍てついて上手く動かせない気分になる。
だから、レッスンの間は極力考えないようにしていた。
けど、こんな話になると考えたくなくても、考えてしまうものだ。
とことん残酷な親友だと、テミンはユノを横目に見た。
そして、意趣返しとばかりに、にっこり笑いながら口を開いた。
「でもユノには自慰が必要ないから、分らなくても仕方ないか」
馬鹿にされたと思ったのか、ユノがむっと眉を寄せて、どうせフェアリーは自慰なんていりませんよと憮然とした表情で言い捨てる。
「違う違う。そうじゃなくて、ユノにはチャンミンさんっていう恋人がいるじゃん。だから自己処理の必要ないね?って意味」
テミンこそ、そういった性の匂いを感じさせない爽やかな笑顔で、何て大胆なことを言うんだ!?とユノは目を見張る。
「それにあの人、性欲強そう。大丈夫?ちゃんと気持ちよくしてもらえてる?バレエ見てても、結構自分本位に踊ってるからさ、あの人。ベッドの中でもそれなら、ユノが辛いだろうな〜って」
にこにこと笑みを崩すことなく、並べ立てられる刺激的な言葉の数々に、ユノはどうしたらいいか分らず、目をきょろきょろと泳がして、もじもじとゼリーの上に乗っかっていたクリームを、スプーンの背で捏ねくり回す。
「え、あ、やっ、その・・・」
一緒に暮しているときも、こういった猥談はテミンとしてこなかっただけに、どう対処していいか分らないユノは、言葉にならない音ばかりを紡いでしまう。
「ご心配には及びません。昨日だって、ユノも泣くぐらい喜んでましたから」
硬質な地を這うような低い声と共に、二人の目の前の席に、ドンっと乱暴に置かれたトレーにテミンが視線を上げれば、予想通りチャンミンが、口元だけはどうにか取り繕って笑った形にしてある笑顔を浮かべていた。
「チャンミナ!!ばっ馬鹿!!お前、何言ってんだよ!?」
椅子から勢いよく立ち上がって、肩を怒らせたユノは、今すぐにでも食堂から出て行きそうな勢いだ。
テミンは、さっと立ち上がると、ユノの肩をポンと軽く叩き、ゆっくりしなよと顎と視線で、苺のゼリーがまだ残っていることを示して、トレーを持った。
「ユノが、からかってきたから、仕返しにからからっただけで、他意はないんです。気分を害されたなら謝ります。すみません」
小さく頭を下げたテミンは、食器を返却して、食堂から出て行った。
テミンが出て行ったのを見計らって、ユノは目の前に座るチャンミンを、きつく睨みつける。
「テミンにあんなこと言うなよ」
「どうしてですか?本当に昨日のユノは、今までにないくらい積極的で、自分から跨ってきてたじゃないですか」
あんなに可愛くてエロい貴方は、初めてでしたと恍惚とした表情で、昨日の情事を思い出している様子のチャンミンに、ユノは顔を真っ赤にして怒鳴った。
「恥かしいからに決ってんだろ!?馬鹿チャンミン!」
「それなら、謝ります。すみません」
やけに素直に謝罪されて、ユノの勢いも削がれてしまう。
「いや、いいけど・・・もう言わないでくれよ?」
苦笑混じりにユノが言えば、チャンミンはそうですね〜と顎に指を添えて、思案する。
「ユノが本当に恥かしいだけなら、もう言いませんよ」
引っ掛かる物言いに、ユノが怪訝な表情をすると、チャンミンは自嘲気味に言った。
「テミンさんに、そういうの聞かせたくないのかと思ってしまいまして。だって、さっきの牧神の午後を見ていると、どっちが恋人同士か分らないって、エミリーたちが言ってたんですよ。確かにあの踊りを見ていたら、アンタら二人が付き合ってるように見えてって、馬鹿らしい嫉妬ですよね?」
ハの字に眉を下げて笑うチャンミンに、ユノも同じように眉尻を下げて苦笑いをする。
「チャンミナ、演じてるだけだよ?俺の恋人は、お前じゃん」
何故かその言葉が、自分の心にも重たく響き渡るのを感じながら、テーブルの上に置かれていたチャンミンの手に、自分の手を重ねてユノはにっこりと笑った。





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