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□メランコリックな指先
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「テミン!!」
ほとんど濡れた状態の髪で、今日知ってしまった事実と、自分の気持ちから逃げるように、バレエ団のレッスン場をあとにしょうとしたテミンを、上半身に何の衣服も身につけていないユノが引き止めた。
聞こえなかった振りをするには、あまりにも無理なユノの声の大きさ。
観念したテミンは、そっと振り返る。
何度も今まで目にしてきて、触れてきた肌理の細やかなユノの肌の上を、流れる落ちる水滴に、思わず目を奪われて、テミンは罪悪感から変に感じられない程度に、そっと視線を流した。
「今日、うちに来ないか?相談したいことがあるんだ」
二年という離れていた時間すら感じさせぬ、昔のままのパーソナルスペースで気兼ねなく近付いてきたユノからは、シャワーを浴びた直後なので、当然石鹸のいい香りが漂ってくる。
今までだって、こういう場面には遭遇してきていた。
というか、二年前はほぼ毎日がこうだった。
なのに、テミンの脈を今は無条件に早くする。
ユノの肌からまだ立ち登る湯気が、テミンの剥き出しになった腕や顔に掛かる。
それだけで、胸がそわそわとざわつき、心許ない気分にテミンをさせた。

「いや、今日はちょっと、」
狼狽する心が隠し切れずに、歯切れの悪い返答が口をつく。
「テミンさん、俺じゃユノのバレエ一直進の心を満たす言葉を掛けてあげられないんで、お願いしますよ」
すっと、ユノの背後から現れたシムチャンミンは、当然のようにユノの肩にタオルを掛けると、恋人の発展を願う優しいパートナーとしての一面を見せて、テミンに再度提案してくる。
ユノもそんなチャンミンの気遣いに嬉しそうな視線を送り、ありがとうと言う。
微笑ましい恋人たちのやり取りを、シャワーブースから出て来た同僚たちが、次々に冷やかすように口笛を吹いて通り過ぎていく。
少し恥かしそうにするユノとは対照的に、シムチャンミンは誇らしげにすら感じる表情で、同僚たちを手でいなしている。
名門のパリオペラ座で、アジア人初となったエトワールのユノが、カドリーユにもギリギリ引っ掛かるか、掛からないかの階級であるチャンミンが、その心を射止めたとあっては、こんな態度になってもしょうがないのかもしれない。
バレエ団を離れる前に、ユノにモーションを掛けていた美女たちの顔が不意に思い出されて、彼女たちはどうしているのだろうか?と思いながら、今なら彼女たちの失恋の痛みを、分ってあげられる位置に自分がいることに、胸が一瞬悲鳴を上げた。

二人がかりで、そこまでお願いされてしまうと、無碍にできるはずもない。
二年ほど、パリを離れていたと言っても、かれこれユノとは離れる前から10年以上の付き合いだ。
留学生時代から互いに切磋琢磨し、時には励ましあいながら、遠い異国で頑張ってきた家族のように尊い存在で、加えて二年ぶりの再会。
この再会を待ち望んでいた昨日までの自身の気持ちも思い出し、テミンは分ったと笑顔で頷いていた。







当然のように二人でキッチンに並ぶユノとチャンミンの後姿が、視界の隅に入り込む。
「ちょっと、ユノ。それはダメです。使わない食材です」
「え?でも入れたら美味しいよ」
「それ、本気で言ってんのか?トッポギにパイナップルって・・・せめて酢豚のときにしてください」
テンポよく言い合う二人の声と、料理器具が触れ合う音。
それに時折混じる楽しげな笑い声。
昔は、あの隣に立っていたのは、自分だった。
ユノが奇天烈な食材を、いつも入れようとして、それを自分も止めずにのっかって、料理じゃないものを作ったことは、数え切れない。
結局二人で、食べられないと笑い合って、外食で済ましたりした。
それでも舞台に立つ数週間前からは、おふざけなしで講師に教わったレシピで料理をして、二人で食べたりないね?と笑いながら我慢をしたりした。
その反動で、公演後は二人そろって一日で五キロは太るような食べ方をしたりと、思い出せば思い出した分だけ、楽しい思い出が湧き出てくるのに、そこに今日だけは切なさが色濃く混ざる。
無性に今はニューヨークの仲間たちが恋しくなった。
向こうにいるときは、ユノに会うのが堪らなく嬉しかったというのに、現金なものだとテミンは溜息を零す。
所在なく、それしかすることがないとばかりに、テミンがテレビに視線を向けた所で、ソファが沈んだ。
「邪魔だから向こう行ってろって言われちゃった」
ペロっと悪戯っ子めいた表情で舌を出したユノが、同居していた当時の距離のまんま隣に座った。
腕が触れ合うのが、当然の距離にテミンはまた困惑する。
視線が自動的に床へと落ちてしまっていると、ユノがそうだ!!と声を上げ、テレビの前の床に座り込むと、ごそごそと何やら一枚のDVDデイスクを取り出して、デッキに挿入し、再びソファに戻ってきた。
「今のうちに見てもらおう。今度、牧神の午後をやることになって、モダンって何か苦手意識があってさ、テミンの意見聞こうと思って」
リモコンをユノが弄ると、テレビに流れ出したのは、モダンの演目の礎となった代表作、牧神の午後だ。
リハの様子を撮影したものなのだろう。
この作品のあらすじとしては、暑い夏の日の午後、牧神(上半身が人間、下半身が山羊)がやすんでいるところに美しい妖精があらわれる。牧神は妖精に欲情し戯れるが、愛を受け入れるかのように見えた妖精が、牧神が抱き締めようとした瞬間、さっと逃げていってしまう。
彼は、一人残された悲しみに沈むが、妖精が落としていったスカーフを見つけ、それで自慰する。
あんまりにもまどろんだ曲とジャンプを省いたこのバレエは、好みが一番分かれる題材だった。
しかし、テミンは目を見張る。
今までの振り付けとは全く異なる振りをユノが踊っていたからだ。
これはもう、ほとんどオマージュ作品と言っても過言ではない。
モダン寄りのコンテンポラリーバレエと言った方が正しいだろう。
衣装も、牧神のユノは牧神らしくないジーンズに上半身裸というもので、妖精たちもバレエ用のドレスではなく、普通に街にあるアパレルショップで販売されている服だ。
「いい振り付けだね?ユノの身体能力をよく掴んで理解してる」
テミンがそう言った瞬間、ユノは嬉しそうに笑った。
「実は、俺が振りつけしたんだ」
「え?本当に?」
テミンが純粋に驚くと、ユノの顔はますます嬉しそうに歪んだ。
「本当。驚いた?」
「驚くよ!!あ、でもこの部分は、俺がユノに振り付けするなら、もっと上体を逸らして、ポジションは五番にして、そのままアティテュードにしたら」
「え?この流れから?できるかな?」
「できるよ、ユノなら。でも妖精を食っちゃいそうだけどね?美しさで」
立ち上がったテミンは、そのまま自分が今提案した振りの型をユノに見せてくれる。
しなやかに腕を斜めに下ろしながら、両足をぴたりと前後に重ねる。
磁石のようにピタリと簡単にテミンはくっつけるが、普通ここまですると上半身が安定せず、綺麗に立てない。
なのに、そのまま綺麗に上体を逸らしていくのだから、並大抵の体幹の鍛え方では、なかなかここまでいかないのだ。
「なんかますます身体柔らかくなったか?」
綺麗なポジションを模るテミンに、目を細めるユノ。
「ユノには進化しても敵わないけどね?」
「そんなことないよ」
「で、このまま前に膝曲げたまま、前にアティテュードで今度は後ろ」
「難しいよ、テミナ。だって、普通は後ろいってからだもん」
「モダンは、こういう挑戦が面白いんだよ?ほら、できるからやってみて」
ユノの手を取り、立ち上がらせると、バーの代わりに左手をテミンが握り締める。
すっと息を吐いたユノは、真剣な顔つきで、もうパリオペラ座のエトワールとしてのスイッチが完全にオンになっている。
「まず、五番」
テミンが言えば、見栄えする長い手足がさっとそのポジションを型取る。
今日二年ぶりに見て思ったが、ますます身体の動きに無駄がなくなり、末端にまで神経がより行き届き、優雅さに拍車が掛かったと思う。
その姿は、クラシックの絶対的王子だなと、テミンは自分のことのようにユノの成長に、目を細めた。
「そのまま、上体を逸らして。あ、手は上げたままがいいかも。後で下ろそう」
ぐーっとゆっくりユノが上体を仰向けに逸らす。
「もっといける?」
テミンの言葉に、ユノは更に身体を後ろへと傾けたのだが、綺麗な曲線を描く前に、うわ!!と体勢を崩し、床へと後ろから倒れそうになる。
それをテミンは、握っていた手を咄嗟に引いて、ユノの身体を胸で受け止めながら、尻餅をついた。
「練習しなきゃ無理だ」
むうっと頬を膨らますユノは、倒れたままテミンの顔を見上げた。
その目は、なんでテミンはあんなに逸れんだ?ずるいと言っていて、テミンは笑う。
リスの頬袋みたいになったユノの頬をつきながら、この間の公演でかなり無茶を強いられた振り付けがあって、それで体幹のバランスが異様に鍛えられ、可動域がだいぶ広がったことを説明した。
「やっぱりテミンにも、俺の知らないテミンができてるじゃん」
その言葉に、テミンは甘い苦笑を漏らした。
これは、再会してすぐにテミンがユノに言った言葉だった。
チャンミンとの付き合いを告白され、どう反応していいか分らないテミンに、ユノが軽蔑されたと勘違いして傷付いた顔をしたので、思わず口から突いて出た言葉だった。
『なんだか俺の知らないユノが一杯いて、寂しいなぁ』と。
「テミン、暫くパリにいるんだろ?」
覗き込むテミンの首に両手をかけて、ユノは引き寄せる。
一気に近くなった距離に、テミンは動揺した。
自分の胸に預ける形で、ユノの後頭部が密着しているから余計だ。
五月蝿いくらい動く心臓の音が、ユノに聞こえてもおかしくない。
「ユノが俺の世話を焼いてくれるならいるかな?」
「なんだよそれ〜俺のお世話焼きたいの間違えだろ?」
冗談を言いながらも、テミンは内心焦っていた。
この体勢から早く抜け出したくて。
「ユノの世話は、苺食べさせとくだけでいいから簡単。誰でもお世話できるね?」
軽口に軽口を重ねれば、ぐいっと更にユノの手に力が篭り、引き寄せられる。
痛い!と抗議しょうとしたテミンは、鼻先が触れる距離にあるユノの縋るような眼差しに、口を噤んだ。

「行くなよ、テミナ。ここにいろよ」

掠れた頼り無げなユノの声は、風の吹かない部屋の中でも、すぐに消えて行ってしまいそうに儚く響いた。
思わず、テミンの指先がユノの唇へと伸びていこうとした瞬間、背後から硬質な声が掛かる。
「ご飯できましたよ?」
チャンミンの呼びかけに、テミンの指はぴたりと止まり、ユノもまたゆっくりと起き上がった。
「うわー、うまそう!流石、チャンミナ!食器、並べるな?」
キッチンへと入っていこうとするユノの頬に、テミンがいることもお構いなしに、チャンミンがキスをする。
これに驚いた顔をユノがするも、チャンミンはこれとこれを出して持って来てくださいと、もう何事もなかったように指示するので、ユノも何も言わずに、食器を探しにキッチンの奥へと姿を消す。
ユノが食器棚から食器を取り出している間、チャンミンはテミンにだけ分るように笑いかけて、こう言った。

「ユノのお世話は俺に任せて、ニューヨークにどうぞお帰りください」



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