2

□彼方の涙
1ページ/11ページ



呼び鈴を押すなり、勢いよく開いたドアから伸びてきた手に、強引に引きずり込まれる。
確かに約束の時間よりも遅くなってしまったことは、申し訳ないとユノ自身も思っていた。
現に、ユノの肩は激しく上下に揺れ、唇と鼻から吐き出される息は、彼がここに来るのにどれだけの焦りと体力を消耗したかを、雄弁に語っていた。
照明が点いてるとは言え、高級ホテルのそれは、雰囲気を重視するあまり、家庭のものと比較しても、薄暗いとはっきり言える。
だからこそ、違和感を感じつつも、ユノは流れに身を任せてしまていたわけだ。


ドアの隙間から伸びてきた腕、しかも寸秒にも満たない時間しか、見ていない状況で、姿見が埋め込まれている壁へと押し付けられる。
肩に掛かった手に力が強くなるのを感じるなり、唇へと真っ直ぐに向かってくる影は、このまま愛し合うことを望んでいた。
そんな恋人の希望に応じるために、ユノの瞼も自然と下りていく。
ここで文句を言えば、この後、年下の恋人がどれだけ意地の悪い抱き方をするかは、目に見えていたからだ。
長年の付き合いでユノ自身と言うより、身体でもって教え込まれたものは、限りなく多い。


しかし、慣れた愛撫に身を預けることなく、次の瞬間、ユノは目を開けた。
自分を愛玩動物か、その類いのように、従順に調教した恋人と、キスの仕方があまりに違ったからだ。
鈍感だと言われるユノでも、流石に自身の恋人の唇の厚さくらい把握している。
何年と付き合っていれば、尚のこと。
薄暗い照明の中、キスを施してくる相手を見れば、いつからか分からないが、相手もユノの顔をまじまじと見つめていた。
丸く垂れた恋人の目とは似ても似つかない切れ長の瞳は、驚きに満ちている。
しかし、数秒後には冷静な色を携えて、じっとユノの瞳を食い入るように見やってくる瞳は、先程の印象と全く違う。
ユノの恋人の瞳は、吸い込まれてしまいそうなぐらい綺麗な瞳をしていた。
誰もの心を簡単に盗んでしまうような。
しかし、未だに唇を合わせたままユノを見つめる彼の瞳もまた他人の目を盗んでしまいそうな魅力溢れる瞳であった。
心を見透かされてしまいそうな。
そんな印象をユノは持った。
ゆっくりとじれったいくらい優しく、ユノの唇を啄ばんでいた名前も知らない青年は、漸くキスを解いてくれた。
そして、ただ唇を離しただけの距離で、ユノを見上げている。

「これって、人違いですね?」
青年の言葉に、それまで緩慢な働きをしていたユノの脳は、やっと正常運転をし始めた。
「・・・あれ?」
慌てふためきながらも、コートのポケットに手を突っ込んだユノは、レシートなどのゴミ類がまず指先に当たる雑多な小さな空間から、携帯を手繰り寄せる。
見つけた携帯の画面をタップして、一通のメールを開封した。
「ここって、2102じゃ・・・」
ユノの携帯の画面を覗き込んでいた青年が、最後まで言わさずに、にっこりと笑って言った。
「ここは2112号室です。よっぽど慌ててたんですね?」
途端、ユノの顔は赤面していく。
「す、すみません!!」
「いえ、貴方の恋人が羨ましいです」
誰からも愛されるだろう愛らしい笑みを浮かべる青年は、よくよく見れば、自分の恋人よりも年下だ。
そんな彼の言葉からは、一般の人たちとは一線を画す性癖が容易く暴露される。
同じく彼からのキスを嫌悪感なく、受け入れた身であるユノも、また否応なしにそうだと肯定してしまっているのだ。
戸惑いゆえに生まれた暫しの沈黙を破ったのは、青年だった。
「真っ直ぐ廊下を歩けば、彼の待つ部屋です。お互い恋人に変な誤解を招く前に、忘れましょう?」
ドアノブを引いた青年は、廊下へと手でユノを促した。
軽くもう一度頭を下げながら、謝罪を口にして廊下に出たユノに対して、ドアを閉めながら青年は言った。

「謝らないで下さい。一目惚れした人とキスができちゃう俺は、ラッキーでしかないでしょ?」
愉しげな声は、ユノが振り返った時には、もう厚いドアの奥へと、消えていた。

「まるで夢の中での体験みたいだ」
歩き出すなり、小さな笑みと一緒に零れた独り言は、おとぎ話の世界に迷い込んだ子供のように夢現。
後に思い返してみても、現実とは思い難いなとユノは感じた。
青年自身が、何処か夢の世界の住人のように中世的な美しさを持っていたから、余計にそう感じたのかもしれない。

「なら俺もラッキーだったのかな?」
笑みを溢しながら、呟いたユノは、人差し指で自分の唇を軽く叩いた。
自分を咎めた理由は、今から会う独占欲の塊と言い切れる恋人には、絶対に知られてはならない秘め事だから。
息を吸い込み、深く吐き出す。
気分を仕切り直したユノは、2012の番号が書かれたプレートの傍にあるドアをノックした。



翌朝、朝食を取るためにブッフェが用意されたレストランスペースに行ったユノは、案内された席で、目を大きく見開く。
昨日、間違って入った部屋の青年が、後方の席で食事をしていたからだ。
まだ早朝の時間帯は、利用客が少なく、数組しか利用していないだけあって、席が隣り合わせにならないように配慮してくれていた。
それでも閑散とする店内では、よく彼の顔が見えた。
見目麗しいと感じた彼は、日の光を浴びていても美しくひたすら目立っていた。
肩に掛かるか、掛からないかくらいの長めの茶髪は、寝起きのせいか、あらゆる方向に跳ねている。
それでも、飛びぬけて美しい彼に、女性と男性両方の給仕が、甲斐甲斐しく世話を焼いていた。
しかし、当の本人はそんな彼らの心情を気にも留めないで、豪快に料理を口に放り込んでいく。
食べることが、本当に好きな自分の恋人とそういう面でも似ていて、ユノは驚く。
職業柄、自分は好きに物を食べられないだけに、気持ちいい食べっぷりの人間に無条件に惹かれる節もある。

「ますますタイプかも」
ユノが一人ごちたのと、背後から声が掛かったのは同時だった。
「あれ?ユノヒョン?」
振り返ったユノの目に映ったのは、同じモデル事務所に所属する後輩のミノだ。
「ミノ?」
「ヒョンってやっぱりオーラが違いますね?後姿だけでも気付きましたよ」
「それは、オーラ云々じゃなくて、お前が俺と知り合いだから分かるんだよ?まだどうせ寝惚けてるんだろ?いつもより口が達者じゃない」
ミノは、くしゃっと笑うとユノに抱きついた。
「ばれました?でも俺のユノヒョンへの敬愛に、嘘偽りはないですからね?」
ミノの背中を叩き、分かってる分かってると頷く。
「ヒョン、信じてくださいよ!!」
ミノが必死に言えば、言うほどユノは可笑しくて笑った。
「はいはい、これで目も覚めたろ?」
柔らかい髪質の頭を一撫でして、ユノはにやりと笑う。
「もう!!ヒョン!からかったんですか!?」
「からかわれるお前が悪い」
「ユノ、もう食べたんで・・・ミノ?」
朝が弱いため遅れてブッフェにやって来たユノの恋人であるチャンミンが、二人のじゃれ合いを中断させた。
だが、ミノを見るなり、ユノの恋人であるチャンミンは驚きに瞠目する。
ユノから身体を離したミノもまた、同じような表情でチャンミンを見つめていた。
「二人、知り合いなのか?」
見つめ合っていた二人は、ユノの言葉にぎこちなく視線を逸らした。
「いえ、そんな親しい仲ってわけじゃないんですけど、久しぶりですね?チャンミニヒョン」
「ああ」
笑みを刻んで相槌を打ったチャンミンは、ユノの前の席に着く。
「じゃあ。ユノヒョン、また」
ぺこりとユノに向かって頭を下げると長い足のリーチを生かして、ミノが向かった先は、ユノがキスをしてしまった青年が座っているテーブルだった。
ミノを目で追っていたユノは、世間の狭さにぎょっとするも、おくびにも出さないで普通にチャンミンと会話する。
しかし、ミノが席に座ったことで、皿からやっと視線を上げた青年と刹那視線がかち合った。



次へ

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ