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□彼のためのソナタ
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デンジャーの歌詞をぼんやりと眺めていたテミンの肩を、マネージャーがポンっと叩いた。
「テミン、疲れたのか?」
レコーディングで納得できるものが録音できず、何度となく繰り返し歌っているんだから、そう思われても仕方ない。
「疲れてませんよ、未熟さを嘆いていただけです」
「身近の手本が凄すぎるから、そう余計に感じるんだろうが、あんまり急ぎすぎるなよ?過保護なヒョンたちが心配するから」
な?と頭を撫でられて、テミンは苦笑する。
この仕事を長くしていれば、しているだけ、痛感することがある。
それは、極みへの限りがないということ。
勿論、自分がまだまだ未熟者だという自覚はあるにせよ、ゴールは近付いたと思った瞬間には、また遠のいてしまう。
自分が自分に満足する瞬間が、きっとこの世界のゴールなのだろうが、足りないものばかりを探してしまう節があるテミンからしてみれば、途方もなく、ゴールは遠い世界だ。


「あ、そういえばチャンミンに頼んでいた歌詞ができたみたいだぞ。もう見たか?」
「いえ、その曲の録音にいつになったらいけるか分からない状況なので」
「まぁ、気晴らしにでも読んでみるのもいいんじゃないか?なんだかんだお前をよく見てるんだなって思う歌詞だったよ」
マネージャーは、他のメンバーの送迎の仕事を終わらすために、レコーディングスタジオを後にした。
他のスタッフも休憩のため出払っているスタジオで、テミンは深い溜息を吐き出して、ソファに寝転がった。
コンセプトが定まらないせいで、ずっと伸ばしっぱなしにしている黒髪を掻き上げると、デンジャーの歌詞に目を向ける。
幼い頃から夢だったソロデビューを勝ち取ったという報告を貰ったのは、昨年のことだった。
そこから事務所と口論のような、言い争いをしながら、デビューに向けて準備している最中なわけだが、活動の主体となる楽曲を貰ったときは、純粋に嬉しかった。
けれど、デンジャーという曲と向き会う度に、おぼろげだった前世の記憶が鮮明になり、テミンを苦しめた。
強烈なシンセベースと独特なパーカッションの調和が引き立っているエレクトロスイングジャンルのダンス曲であるデンジャーは、女性の心を盗みに行く怪盗をコンセプトにした男らしさを誇示する作品だ。
狙いは、分りやすくファンたちの心を盗むという攻めの楽曲。
歌詞にも、その狙いが分りやすく散りばめられており、相手の心や意図をものともせずに、奪い尽くす、そんな歌詞だ。
初めて手にしたときは、何も感じなかったというに、歌を自分のものにしていく中で、妙にしっくりと重なるものを感じた。
疑似体験染みた感覚は、不意にテミンの前世の記憶をフラッシュバックさせ、不思議な感覚の謎を解いてくれていったわけだが、思い出せば、思い出しただけ、テミンの胸には、複雑な感情がぐるぐるといつまでも渦を巻き続けている。

「本当に、盗もうとしたなんて」
嘲笑を浮かべたテミンは、歌詞が書かれている紙を床に投げ捨て、両腕をクロスして自分の顔を覆い隠すと、込上げる後悔を押し殺すために目を瞑った。
眠って忘れてしまいたかった。
前世の愚かな自分の行いを。





広大な敷地を囲う高い塀は、美しい人間を隠すためには、てっとり早い。
この家の主は、持て余す富を守るために城壁を造ったわけではないのは、テミンにも理解できる。
いや、同じ人間に想いを抱くものとして、奇しくも共感できる唯一のことが、これなのは、今からその人を奪い去ろうとしているからなのかもれない。
広い庭に放し飼いにされた獰猛なドーベルマンも、この主が大切にしている人を守るために、配備された忠実な僕だ。
数え切れないほどに、幾重にも張り巡らされた監視の目を掻い潜った先には、テミンが数え切れない年数想い焦がれてきた人がいる。
月が雲に隠れた瞬間、テミンはすっと塀から飛び降り、駆け出した。
人間じゃないテミンからすれば、この邸宅の警備はどうってことない。


最上階の五階に位置する場所に、ユノは監禁されているはずだ。
簡単に検討がつく理由は、五階にだけ窓が一切設置されていないからだ。
アジア有数の青年実業家が、一ヶ月の突貫工事で、新しい家を建設して、その家の一部に一切窓がないなんて、何か人の目に晒したくないものを隠そうとしている証拠だ。
使用人が、出入りする勝手口から忍び込んだテミンは、蝋燭が揺らめく薄暗い廊下を感覚だけで突き進んでいく。
四階までは、簡単に侵入できたが、この先はたった一つの階段しかなく、しかも階段の前には大きな扉が立ちはだかり、見るからに頑丈な南京錠が施錠されていた。
「折り紙つきの執着心だな」
何百年と見て来た中でも、飛びぬけ、ずば抜けた妄執ぷりをまざまざと目の当たりにし、テミンは心に刺さったままの棘が疼くのを感じた。
いつだって、愛する人を殺してしまう決定打を与え続ける存在になってしまう自分の存在意義など、誰に問わずとも意味のないものだと自覚している。
それでも、今度こそは違う結末が待っていると信じて行動に移してしまうのだ。
一緒に長く働いている合理主義者の塊である兄からは、‘死神と人間のハーフなんじゃないの?結末が違うだなんて思い込めるのは、人間ぐらいなもんだよ?不幸を不幸だと思わずに、抗うとする癖は、弱者の専売特許のそれと同じだ’と、ずばずばと好きに言いたい放題してくれつつも、内心は自分を心配してくれているのを、テミンも知っているので反論はしない。
それに、反論する余地など自分にはない。
兄が言うとおり、たった一人の人と愛し合うことを願い続ける自分は、まさに人間と同じだと言えると自分でも思うからだ。
愛する人を想うゆえに、一瞬の弱気を突いて、顔を出してしまう兄の言葉を、頭を振ることで消し去り、テミンは一つの部屋に隠れ、家の主がこの扉を開けに来るのを待つことにした。


人の気配を感じ、そっと扉の隙間から覗き見たテミンの目に映ったのは、家主ではなかった。
執着心の強い彼が、自分以外の誰かを五階に上げるとは思っていなかったテミンは、毒気を抜かれた。
それでも、絶好の機会を逃すことは出来ないと、素早く使用人らしき人物に忍び寄り、死神の力を使って、気絶させる。
痛覚を刺激することなく、一時的に人を失神させれるくらいの力が死神にはあるのだ。
近付いて、そっと何処かしらの身体に触れなければいけないので、そこまで応用が利く代物ではないが。
倒れた使用人の手から鍵を奪うと、テミンは扉の施錠を急いで開錠して、五階に向かった。
長い廊下をひたすら走ると、奥まった場所に部屋が一つだけあった。
やはりそこにも鍵が掛かっており、テミンは手の中にある何十という鍵の中から、苦戦しつつも扉の鍵を探し当て、開錠した。
扉を開けて中に入ると、間接照明が部屋を照らしているが、決して明るいとは言いがたい。
窓もないので、月の明りも届かないのだからしょうがない。
大きな天蓋付きのベッドと、バスルームと思われる部屋がひとつついたシンプルな部屋だった。
家具がないせいで、無駄に広く感じられ、淋しくも感じる。
寂しがり屋なユノにとっては、苦痛な部屋だろうなと思い、テミンは胸が痛んだ。
「ユノさん」
テミンがそっと声に出せば、ベッドの上にいた物陰が動いた。
そして、酷く掠れた声が返事を返してくれた。
「・・・テミ・・ナ?」
信じられないと言わんばかりの驚きや、疑問が乗った声を聞くなり、テミンはベッドに駆け寄っていた。
そして、ベッドに座っていたユノを目にするなり、泣き出しそうな顔で強く抱き締める。
その身体は、ステージに立っていたときよりも、痩せてしまい、筋肉も落ちてしまっていた。
監禁されている急激なストレスからだと、誰でなくても分かる。
「本当に、テミンなのか?」
背中に恐る恐る腕を回していたユノだが、テミンの匂いや体温を感じた瞬間、ぎゅっと強くしがみついた。
夢じゃないという実感が、溢れてきたからだろう。
「そう、テミンだよ?」
そっと身体を離したテミンが、ユノの目を見つめる。
「貴方のことを愛しているテミンだよ」
痩せてしまったせいで、また一回り小さくなった顔を手の甲で撫ぜながら、テミンが慈愛に満ちた眼差しと声で、ユノを優しさという綿に包み込めば、ふんわりと笑んだユノがテミンに再び抱きついた。
「会いたかった、テミナ」
「僕も、本当に会いたかった」
互いに互いの温度を十分堪能すると、どちらともなく離れ、今度はじっと顔を見つめあった。
久しぶりに会うと、それだけで愛しさは十分に込み上げて来る。
言葉を交わすことなく、互いの指先で顔に触れ合い、確かめ合うと、今度は唇の温度で愛を囁きあった。
ちゅっちゅっと皮膚を啄ばむ音が、徐々に唾液で濡れ始める。
二人の愛の深さを物語るように、次第に音は激しさを増し、荒い息遣いも部屋に響きだした。
気が済むというよりも、ユノの感触に触れ、安心しできたテミンはキスを解いて、荒く呼吸を繰り返すユノの手を握った。
「貴方を盗んでもいいですか?」
テミンの問いかけに、ユノは誰もが見惚れるだろう最上級の笑みを浮かべ、テミンの唇にキスをした。
「盗んで?心だけじゃなくて、この身体ごと。お前に盗まれるなら、本望だよ」
この瞬間が何よりも一番幸せだったのだ。
でもそんな幸せは、数分後には毟り取られてしまう。
早くそこから逃げろと頭の中で、警報が鳴り響く。
そこに居てはいけない!
早く早く早くっ!!
じゃないと、あの人が!!


「テミン?テミン?」
身体を揺さぶられて、テミンはハっと目を開ける。
びっしょりと汗を掻いてる自分に、驚きながらも寝ていたせいか、自分の置かれている状況があやふやでちゃんと理解できていない。
「休憩にならなかったのか?魘されるぐらいの悪夢を見てたみたいだな?」
マネージャーが困り顔で、気遣わしげにテミンの頭を撫でる。
ソロデビューのプレッシャーを、一人背負い込むテミンを心配している彼に、本当の理由など言うつもりもないテミンは、まだまだ末っ子ですね?俺と笑って、自分を卑下するのだった。
理性が大切な人を諦めろと言うのに反して、身体全身が諦めることを拒否しょうとしているかのような拒絶反応に、テミンの心は今にもバラバラに砕け散りそうな一歩手前を、危うい足取りで立っていた。

「気分展開に、もう一曲の方を先に録音してみるかって言ってたけど、どうする?」
相当テミンが苦しんでいると見たのか、マネージャーが気を配ってくれる。
前世の夢のせいで、ソロ活動の準備で蓄積していた疲労がどっと押し寄せてきたように感じたテミンは、その案に乗ることにした。
「そうですね」
「んなら、歌詞頭に入れろよ」
ローテーブルに置かれていた紙を、マネージャーがトントンと指先で叩いて示す。
それをテミンが手に取ったのを確認すると、マネージャーは食事の調達に出かけると言って、出て行った。
他のスタッフも帰ってこないところを見ると、マネージャーが、もう少し休憩させてやってほしいと頼んだに違いなかった。
初めて読む歌詞を目にし、最後まで黙読するなり、テミンは笑ってしまった。
皮肉と揶揄が随所に詰め込まれすぎて、溢れだしてしまいそうだったからだ。
嫌味の洪水が起こりかねない。
「こういうの何て言うんだっけ?牽制?」
歌詞を読む限り、ユノが前世の記憶がないからこその揶揄だと感じ取れる。
歌詞の中に登場する君は、ユノのことに違いなかったからだ。
お前の想いがどれだけしつこいのか、改めて考え直せと言わんばかりの歌詞は、テミンの想いをせせら笑っていると見て、いいだろう。
そして冒頭部分の‘まだ女をよく知らないようだって?僕が愛に不慣れな幼い王子様のようだって?笑ってしまう。その姿をそのまま信じるのは’は、チャンミン自身がテミンに抱いていた印象なのだろう。
そこは、自分の判断能力の無能さを嘆いてると考えるのが正しい。
自身がテミンを侮った罰だと。
歌詞の書かれた紙をローテーブルに置き戻したテミンは、すっとソファから立ち上がった。

「記憶なんかに頼らなくても、盗むことはできるんですよ?チャンミニヒョン」




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