式神方程式
□灰色の世界
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あれからもう幾度もの時間が経った。様々なことをしてここから出ようとしたが、相変わらず僕はこの妙な白黒世界から抜け出せないままだった。先生も昼ご飯を待っているので、早くここから抜け出さなければならないのに。しかし、出来ることのすべてをやりつくした今、名案と胸を張って叫ぶことの出来る考えが思い浮かばず、ただ扉の前に立ち尽くしていることしか出来ないでいた。僕はこんな事態が永遠に続いてしまうのではないかと無意識に最悪な結末を想定してしまう。
そんな時、突然ジーパンの右ポケットが不気味に震動した。何事だろうかと思いつつポケットを探ってみると、今いる世界にはないはずの、赤い色のある携帯が顔を出した。
そういえば携帯は持ってきたんだった。しかし、ここからでは電波がないから繋がらないはずなのに。なぜなんだろう。
そんな疑問が湧いたが、取りあえず携帯を開いてディスプレイを確認する。そこには、『鬼教師』と表示してあった。
「おい炎子。昼飯買いに行くだけなのに何でこんなに時間かかってんだ、ああ。名前通りどっかの男をたぶらかしてエンコーでもしてんのか、このアマ」
先生は僕の帰りが遅いことに相当怒っているらしい。現に、僕のことを『炎子』と呼んでいる。僕がその呼び名を毛嫌いしていると知っていながら。
「いえ……。ちょっと困ったことに巻きこまれまして……」
「困った事って何だ。ごまかそうったってそうは」
「黙って聞いてください」
先生の怒りの電話は僕にとって幸運なのかもしれない。状況はどうあれ、先生とコンタクトがとれたことは大きい。先生なら、この世界のことについて何か知っているかも知れない。
「僕、今白黒の変な世界にいるんです」
「それは……。本当か」
先生はさっきとは打って変わって僕の言葉を一言一句聞き洩らさないように黙りこくった。
「はい。いつもとあまり変わらない風景が僕の目の前に広がってます。ただ、色がないんです。それに、」
僕がそう言い終わる前に突然手首に強烈な衝撃が走った。携帯は僕の手元を離れ、先生がつくった結界に衝突してガラクタに変わり果ててしまう。
振り返ると、そこには頭は牛、体は人間の化物がいた。黒いズボン以外に着ているものはなく、右手には体格に似つかない細い金棒を持っている。どうやら、その金棒が僕の携帯をスクラップに変えたらしい。
「そこで何をしている」
驚くことに、妖怪らしきものが言葉を発した。それも、日本語を。
「い、いや……。あ、あの……」
僕は恐怖のあまり正しく答えることが出来なかった。体は硬直したように動かず、叫び声を上げることさえできない。
僕は知らなかった。妖怪がこんなにも恐ろしいものなのだと。その恐ろしさを足の震えが物語っている。
「何をしていると聞いている」
妖怪は怒鳴り声を上げて金棒を僕の目の前に突き付けた。そのせいで、間抜けにも僕は尻もちをついてしまう。
「なぜ人間がここにいるのだ」
その言葉を聞いて、僕は気づいた。もしかしたら、この妖怪はこの変な世界について何か知っているかもしれないということを。
しかし、この世界のことを教えてくれるほど友好的な雰囲気ではない。そもそも、僕にはそのことを聞けるほどの度胸が備わっていない。
逃げるしかない。
僕の直観はそう訴えていた。しかし、どう逃げればいいのか全く思い浮かばなかった。目の前には妖怪がいる。しかも僕に武器をつきつけている。それに、僕は尻もちをついている。おそらく、このまま逃げたらすぐに捕まってしまうだろう。その後に待っている地獄は想像に難くない。
さらに、僕は陰陽師としてはあまりにも知識がない。知識があったとしても、恐怖で体が動かないため何も出来ない。いったい、どうすれば。
僕がこの状態を打破する方法を模索していると、妖怪が、
「お前、ただの人間ではないな」
と至極見当外れのことを言いだした。
「いえ……。ぼ、僕は、た、ただの人間ですけど……」
「ただの人間がここに入れるはずがない」
確かに、普通の人間ならこんな場所に入れないかもしれない。しかし、ここに入れたのが単なる偶然だということもある。そのことに気付かないのだろうか。
「まあいい。ついて来てもらうぞ」
妖怪は最悪の命令を告げた。その命令を実行することは僕の死を意味していた。
このままだとどこかに連れて行かれてしまう。そうなったら、僕はここに戻って来られないだろう。それに、ポケットの札を見れば陰陽師だとばれてしまう。ばれたら、ただで済むはずがない。しかし、どうやって逃げればいい。震えて何もできないのに、どうやって。
僕はすぐに立ち上がろうとした。しかし、腰が抜けてしまったのか立ち上がることさえ出来ない。このままだと殺されてしまうかもしれないのに、力が入らない。
「ついて行きたくないのか。ならば……」
妖怪は一息を入れて僕へと怒鳴りつける。
「ここで死んでもらう」
妖怪はそう言った瞬間手に持っている金棒を振りかざした。僕は避けずに、ただじっと金棒の行方を眺めていることしか出来なかった。