しっぽや1(ワン)

□雅(みやび)な風〈9〉
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side<HUKAYA>

『本当は私じゃなく、その人を抱きたかったんじゃないか、って気がした』
ナリの言葉が深く深く僕の胸に切り込んでくる。
何か言わなくてはと焦れば焦るほど、何も言葉が出てこなかった。
どう言えばナリがこの状況を納得してくれるのか、そもそも納得してくれるのだろうか、底知れぬ絶望が胸を走り抜けて行く。
ナリからは悲しみの感情が感じられるた。
契っている時、彼は僕を『好き』だと言ってくれた。
肌を合わせた相手に他に慕っている人がいる、それはどれだけナリを傷つけてしまうことなのか。
人間ではない僕をその身に受け入れてくれたのに…
自分のことしか考えられなかった浅はかで愚かな獣にも、自分のしでかしてしまった事の重大さが実感されてきた。
僕は飼って欲しいと思える何よりも大事な存在を、傷つけてしまったのだ。

「ごめんなさい…」
泣きながらナリに謝ったが、どんなに弁解したところで彼は僕を許してはくれないだろう。
「僕のことちゃんと言えなくて、ごめんなさい…」
それでも、僕はナリに謝ることしかできなかった。
「ふかやの大事な人…亡くなったの…?」
聡い彼にはそれすらもお見通しであった。
もう、ナリの側には居られない。
きっとそれを許してもらえない。
最後の最後で、僕は自分のことを伝える事を決意した。
それは勇気ではなく、絶望の果てにある自暴自棄に近い情けない決意であった。


僕が人ではないこと、ナリに飼って欲しいと思っていること。
暗闇の中それだけは確かなナリの身体を抱きしめて、たどたどしい言葉で想いを伝えていく。
ナリは僕の告白の真意を測りかねているようだったが、全てを理解し汚らわしい存在だと嫌悪されるかと思うと、消えて無くなってしまいたくなった。
白久や黒谷から消滅しかかった話は聞いていた。
再び得た飼い主を失うかもしれない絶望が、リアルな闇となって僕の心を包み込んでいく。
この闇を抱えながらこの先も化生として生きていくのは耐えられそうになかった僕は、存在を放棄しようと決意する。
それでも最後にナリには僕の全てを打ち明けてから消えたかった。
あんなに躊躇っていた記憶の転写をナリにして、僕は一時(ひととき)、あのお方との思い出の海に沈み込んでいく。



懐かしく優しく楽しかった煌めくような記憶。
犬としての存在の全てをかけた僕とあのお方の日々。


過去を見ながら、その記憶に負けないくらいナリと過ごした数日が輝いていることに気が付いた。
ナリの側に居た時間こそが、化生してからの僕の存在の全てだったのだ。
それなのに、自らの弱さのためにその幸福を失うことになってしまった。
せめて最後にナリの役に立てることは出来ないだろうか。
『消滅…僕に関することが全て消え失せるなら、ナリの記憶の中からも僕は消えてしまうかもしれない』
先程までナリに僕を知られずに消滅するのが怖かったが、その考えが変化する。
『僕との記憶がなくなれば、ナリは今まで通り暮らしていくことが出来るんだ
 好きだと思っていた存在が化け物で、他の人を慕っていたという事実を忘れることが出来るんだ
 ナリの、これからの生活を守ることが出来るんだ』
そのことに気が付いて、僕は消滅することが怖くなくなってきた。
『最後に、ナリのためになることが…出来る…』
遠のく意識の片隅で、僕は奇妙な満足感を覚えていた。
腕の中にいるナリの存在を感じることすら、もう出来なくなっていた。



「ふかや、ストップ(止まれ)」
遠のいていく意識は、凛と響くナリの声で引き戻された。
僕は何も考えず、その命令に従おうと存在を放棄するのを止める。
「ステイ(待て)…、ステイ…」
それは次の命令がくるまでの緊張の時間であることを知っていた。
他のことを考える余裕はなく、全神経を飼い主に集中させる。
「カモン(来い)」
その言葉に従って、僕は一目散に飼い主の元に戻っていった。
意識はハッキリとし、腕の中のナリの存在も確かなものに変わっている。
自分に何が起こったのか全く分からなかった。

「あの人の代わりに私がふかやを飼うよ」
ナリはそう言って、僕を抱きしめてくれた。
惚けていた僕の心に彼の言葉が徐々に染み渡っていく。
「僕、化け物なのに?飼ってくれるの?」
余りに都合が良すぎて、これは消滅した僕が見ている夢なのではないかと思ってしまった。
けれども彼はしっかりと、僕を飼うと宣言してくれた。
僕が犬だったことを理解した上で、飼うと言ってくれたのだ。
「また、飼い犬になれたんだ
 飼い主が出来たんだ」
あまりの幸せに彼の身体にしがみつくと
「もう消えようとしちゃダメだよ」
ナリが命令する。
その命令に従える喜びに打ち震えながら
「はい!僕、ナリの命令なら何でも聞くからね」
僕は直ぐにそう答えた。

ナリは僕の全てを捧げるに足る存在であり、彼が飼い主になってくれる事は無上の幸福なのであった。
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