しっぽや1(ワン)

□上弦の月〈5〉
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父が留守にすると周知しておいたせいか、その日はあまりお客さんが来なかった。
けれどもお互い1人で店番をするのはちょっと不安だったから、今日は2人で店番をしようと決める。
なので、おにぎりと卵焼き、ソーセージに漬け物といった簡単なお弁当を作り、ポットにお茶を入れてお店で食べた。
それは何だかピクニックみたいで、僕にはとても楽しかった。


事件が起こったのは、お昼を食べてからしばらくのことだった。
誰もいない店内に、紙袋を持った男のお客さんがフラリと入ってきた。
『こんな時間に男のお客さんなんて珍しいな』
そう思いつつ、僕は
「いらっしゃいませ」
と声をかける。
初めてみる顔だったけど、濃い色のサングラスをかけていたので本当に初めてのお客さんか自信はもてなかった。
右耳の下あたりに黒子が2つ並んでいるのが、特徴と言えばそうだろうか。
彼は僕には目もくれず、店に貼ってある料金表を確認していた。
困った僕がジョンを見ると、彼は訝しげな顔をしている。
お客さんには常に愛想が良く、笑顔の絶えない彼にしては珍しい反応だ。

「すぐに洗って貰いたいんだけどさー、出来る?
 今すぐ、強力な奴で洗ってよ」
お客さんは馴れ馴れしい言葉使いで話しかけてきた。
「特急仕上げでも、出来上がりは明日になってしまいますが」
僕がオドオドと答えると
「明日?」
彼は不満そうな顔を見せる。
「しゃーねーな、じゃこれ、一刻も早く頼むかんな
 ちょっと、醤油たらしちまってよ」
お客さんが紙袋から取り出した上着を見て、僕は絶句してしまう。
それは『醤油をたらした』なんて言葉では追いつかない、『醤油瓶をぶちまけた』と言った方が早いような状態であった。
しかもそれはつい先ほどのことなのか、店の中に濃い醤油の臭いが立ちこめる。

『生地も仕立ても良い物だ、何よりこの汚れ
 お父さんもいないし、明日までには無理…』
僕は現物を見ないで軽々しく『明日』と言ってしまった事を、激しく後悔する。
「申し訳ありません、この汚れでは明日のお引き渡しは無理です」
僕が縮こまって告げると、案の定お客さんの顔が苛立ったものになった。
「お前、明日って言っただろうが
 良いから、今すぐ強力な洗剤でジャブジャブ洗えよ
 クリーニング屋なんだから、あんだろ?そーゆーの」
半ば脅すように、強引にそんなことを言ってくる。
「いえ、でも、あの…」
上手く言葉を発せない僕を庇うように、ジョンが割り込んできた。
「お客様、ここまで汚れた物はすぐには無理です」
ジョンは、僕が聞いたこともないような冷たい声できっぱりとそう答えた。

「んだ、この店はクリーニング屋のくせに汚れた服は洗えないってか」
お客さんの声も険を増していく。
「当店では、お取り扱いしかねます」
ジョンが居丈高に言い放つと
「客を選べるようなご大層な店なのかよ」
お客さんも負けじと言い返してきた。
そんな最悪なタイミングで、新たなお客さんが店のガラス戸を開け店内に入ってくる。
それは、近所ではスピーカーとして有名なオバサンであった。
彼女はとにかくトラブルや噂話が大好きなのだ。
祖父母の看病で両親が留守にする旨は近所にも周知してあるので、様子を見に来たのだろう。
すぐにジョンとお客さんの険悪な雰囲気に気が付いたようだが、好奇心の方が勝ったのかオバサンは店を出ていこうとはしなかった。

「汚れた服洗えねーなら、何洗うんだよこの店は」
「てめーで汚した服くらい、てめーで洗え」
ついにジョンが喧嘩腰の言葉を口にしてしまう。
「んだと、この店は客を何だと思ってんだ」
「てめーみてーな奴は、客じゃねーよ」
ジョンとお客さんは一触即発状態でにらみ合っていたが、お客さんは店の壁掛け時計を見ると舌打ちして
「チンケな店が客を選ぶたーな」
そんな捨てゼリフを残し乱暴にガラス戸を開け去っていった。
さすがにジョンの剣幕に驚いたのか、スピーカーオバサンもそそくさと店を出ていった。

「うん、まあ、無茶な事言うお客さんだったけどね
 あのオバサンに聞かれたのはマズかったかも
 きっとあの店は、汚れの酷い服は取り扱わずに追い返すって、大げさに言って回るだろうな」
僕は苦笑してしまう。
「あ、俺…」
ジョンはハッとした顔になり、オロオロとする。
「お店の評判下げるとか、そんなつもりじゃなく」
「わかってる、しょうがないよ
 あの汚れは、一晩で僕がどうにかできるレベルじゃなかったし」
僕が慰めても、彼は泣きそうな顔をしていた。

その後はお客さんが1人も来なかった。
「もうあのオバサンが、近所中に言って回ってるのかも」
ジョンは店を閉めた後も、落ち込みっぱなしだった。

その夜も、僕達は同じ布団で眠る。
「岩月、ごめんなさい」
ついに泣き出してしまったジョンを抱きしめ
「気にしてないよ」
僕は夢の中でしたように彼の頭を撫でてみた。
彼は叱られた犬のようにいつまでも震えていて、それがまた僕には可愛く思えるのであった。
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