しっぽや1(ワン)

□上弦の月〈3〉
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僕が中学生になったある日、お爺ちゃんがこんな話をしてくれた。
「岩月、満月のお月様は、まん丸だ」
そう言ってまん丸のどら焼きを見せてくれる。
「それが半分になると半月」
お爺ちゃんはどら焼きを半分に割って、片方を僕に手渡してくれた。
「半月には『上弦(じょうげん)』と『下弦(かげん)』があるんだ
 弓矢は知ってるかな?
 弓矢の糸のことを『弦』って言うんだ
 半月の形は弓矢みたいだろう
 弦が上を向いているのが『上弦』下を向いているのが『下弦』」
お爺ちゃんは半分のどら焼きを使って説明してくれた。
「弓矢はいつまでたっても半月だけど、お月様は満月になることが出来る」
お爺ちゃんが自分の持っているどら焼きを、僕の物と合わせまん丸に戻してみせた。
「人間も、満月になることが出来るんだ
 俺にはお婆ちゃんがいる、お父さんにはお母さんがいる
 いつかお前にも、満月になれる相手が現れるさ」
お爺ちゃんはそう言って、どら焼きにかぶりついた。

「うん…」
僕は俯いて小さく頷いた。
中学校では仲の良かった友達とクラスが分かれてしまい、上手く友達が作れなかったのだ。
お爺ちゃんの言葉は、僕を慰めるものであった。
「これは誰にも内緒だぞ
 お爺ちゃんな、お婆ちゃん以外にも半月が居たんだ」
お爺ちゃんは声を潜めて、重大な秘密を打ち明けるように僕に言った。
「ええっ?」
僕はビックリしてしまう。

「あちこち移動しながら暮らしてたとき、お爺ちゃん『ジョン』って犬と暮らしてたんだ
 人懐っこい賢くて可愛い犬でな、ジョンが懐く人に悪い人はいなかった
 仕事で疲れて帰ってきたときも、ジョンが笑いながら出迎えてくれると楽しい気持ちになれたんだよ」
「犬が笑うの?」
「ああ、俺なんかより、ずっと嬉しそうに笑ってくれる」
お爺ちゃんは懐かしむように遠くを見ていた。
「岩月は、犬が嫌いかい?」
「犬って怖い、吠えるし、噛むもん…」
僕はまた、俯いてしまう。
「好きな相手には、吠えないし、噛まないよ
 家で飼えると良いんだがな」
「ふうん…」
爺ちゃんは家族にはそんなに口数が多くなかったけど、僕には色んな話をしてくれた。
僕にはそれが特別なことのような気がして、とても嬉しかったのだ。

けれどもお爺ちゃんはお婆ちゃんが亡くなってすぐ、後を追うように死んでしまった。
その時には僕は高校生になっていたけれど、大好きな祖父母が相次いで他界してしまったことにとてもショックを受け、暫く学校に行けなくなってしまった。
大学に行こうという気力もなく、出席日数ギリギリで卒業した後は、家のクリーニング店の仕事を手伝っていた。
『岩月に染み抜きしてもらうと、服が生き返る』
生前のお爺ちゃんに誉めてもらっていたことが、唯一の僕の慰めになっていた。

そんなとき、慣れ親しんだ土地を離れるという話が持ち上がった。
思い出の詰まったこの場所から離れたくなかったが、僕の意見など聞いてもらえる訳もなく、僕達一家は引っ越して新たな土地でクリーニング店を営業した。
僕は車の免許をとり配達や裏方を手伝っていたが、いつも寂しさを抱えていた。

引っ越して暫く経った頃
「親父がお世話になった方が隣町にいるんで挨拶してくる」
お父さんが急にそんなことを言い出した。
「秩父診療所の秩父先生ってお医者らしい
 お前も聞いたことがあるだろ?」
確かに、その名前はお爺ちゃんから何度か聞いたことがある。
きっとお父さんは知らないだろうけど、ジョンも診みてもらったことがあると言っていた。
年賀状や暑中見舞いのハガキを出した方が良いのかいつも悩んでいたが、結局『もう俺のことなんて覚えていないかも』と1度も出したことは無かった。
どんな人物であるか気になってはいたし、お爺ちゃんがどんなところで暮らしていたか興味もあったので、僕にしては珍しく行動的に、車でお父さんを送りがてら行ってみることにしたのであった。


お爺ちゃんは手書きの板の看板がかかっていたと言っていたが、秩父診療所は立派な病院に見えた。
扉には『休診日』の看板があったが、病院の近くに『秩父』と言う表札の家があったので、お父さんはその家を訪問することにした。
僕は暫く近くを車で走っていたが、お爺ちゃんから聞いたことのある『木賃宿』やら『定食屋』を発見することは出来なかった。
2時間ほど経ちお父さんを迎えるためもう一度秩父という表札の家に戻る。
『違っていたらどうしよう』
ドキドキしながらチャイムを押すと、お父さんが出迎えてくれた。
「せっかくだから、お前も挨拶して行きなさい
 お爺ちゃんに縁のある皆さんも集まってくれてるんだ」
その言葉を聞いて、僕は気が重くなる。
『皆さん』
初めて会う複数の人の輪に入るのは、僕の苦手なことであった。
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