しっぽや1(ワン)

□上弦の月〈2〉
2ページ/4ページ

「今日は、モンブランとエクレアを用意してみたよ」
秩父先生の言葉で、お楽しみのおやつタイムが始まった。
「ケーキって色んな種類があるのな
 このクリーム、栗なんだろ?どうやればこんな風になるんだ?」
新郷が物珍しげにモンブランをフォークでつついている。
「自分たちでもケーキを買ってみたいけど、何で作られているのかわからなくて
 メニューは読めても、想像が追いつきません」
白久が苦笑する。
「イチゴがのったショートケーキ、あれが一番わかりやすいよ
 シュークリームもね」
俺の言葉に、皆は頷いてくれた。


ピンポーン

おやつ時に、秩父先生の自宅にチャイムが響いた。
「あれ、診療所に休診日の看板出し忘れたっけ?」
秩父先生が訝しげな顔をする。
「いえ、私達が通ったときはきちんと出ていましたが」
白久も首を捻った。
「もしかして急患が先生を頼ってきたのかな?
 なら、僕達はお暇(いとま)した方が」
黒谷が焦って立ち上がると
「いや、急患は秩父総合病院へ行ってもらうよう看板に書いてあるんだ
 新聞の勧誘かな、最近しつこいんだよね
 新聞は待合室に置いとくけど、最近は婦人雑誌の方が需要あってさ
 何種類も取りたくないんだ
 ここはきっぱり断ってくるよ」
秩父先生が玄関に向かうと、彼を守るように親鼻も付き従っていった。

暫くすると、玄関の方から大きな話し声が聞こえてくる。
けれどもそれは言い争っている様な険悪なものではなく、何か盛り上がっている興奮した感じだった。
ほどなく部屋の扉が開き
「凄いお客さんだよ!こんなことってあるんだねー」
秩父先生に連れられて1人の人間がやってきた。
その人物の顔を見た瞬間
「あっ!!」
その場にいた化生全員が反応し、一斉に俺の方に顔を向ける。
その人間の顔は、あのお方にそっくりであった。
けれどもその人はあのお方ではない。
秩父先生よりは少し年輩に見えるがあのお方より若すぎるし、出会った瞬間の爆発するような喜びが感じられなかった。

「すいません、皆さんお集まりの時にお邪魔してしまって」
その人は恐縮したように頭を下げた。
きちんと背広を着ていて、お土産だろうか、手にはデパートの柄が入った紙袋を持っている。
秩父先生を訪ねてきたようだった。
「良いんだよ、皆、知らない仲じゃないんだ」
秩父先生が少し潤んだ瞳を彼に向けた。
彼は俺達の顔を見回して不思議そうな表情になった。

「皆、彼は岩さんのお子さんなんだって」
その言葉に、俺は衝撃を受けていた。
『あのお方にご家族が居ることは知っていたけど、こんなに大きなお子様も居たのか』
あのお方は本当なら犬ではなく、お子様と過ごしたかったのではないかと思うとズキリと胸が痛んだ。
「えっと、彼らは岩さんにお世話になった戦災孤児…と言うには若く見え過ぎるな
 うーん、どう言ったものか…」
秩父先生が小声でブツブツ呟きながら、悩み始める。
「そうそう、彼らは戦後岩さんにお世話になった人達の息子さん達だよ
 色々混乱した時代だったからね
 岩さんなくして彼らは存在し得なかった
 彼らのお父上達は惜しくも亡くなってしまったが、皆、岩さんのことを話に聞いていて、今でも感謝しているんだ」
何だか分かるような分からないような曖昧な秩父先生の言葉であったが、あのお方の息子さんは
「そんな方達がいたんですか」
そう言って感慨深そうな顔になった。

「初めまして、永田 光男(ながた みつお)と言います
 親父がお世話になったようで
 親父の知り合いがこんなにいるなんて、嬉しい限りです」
光男氏は俺達に丁寧に頭を下げた。
「岩さん、永田 岩男(ながた いわお)さんというお名前だったんだって
 うかつだった、てっきり名字に『岩』の字が入っていたのかと思ってたよ」
秩父先生が申し訳なさそうな顔になった。
「親父は、言葉少ない人だったから
 自分のこと、全然しゃべらなかったでしょう」
光男氏が苦笑する。
「俺にもね、復員したのに家に帰ってこなかった間のこととか、ほとんど話してくれませんでしたよ
 でも最後にここの住所を教えてくれて
 秩父診療所の秩父先生という医師にはとても良くしていただいたから、自分の代わりにお礼を言いに行ってくれと
 秩父先生、生前の父がお世話になりました 
 本当にありがとうございました」
光男氏は紙袋を秩父先生に手渡しながら、深々と頭を下げた。

しかし、俺はその光景に注意を払う余裕はなかった。
彼の言葉が鋭い刃となって、俺の胸を深く抉っていたのだ。
『生前』
彼は確かにそう言った。
『生前』
それはあのお方の死を告げる言葉。
『生前』
絶望に満ちた、忌まわしい呪いの言葉であった。

俺は、再びあのお方の横に立つことに間に合わなかったのだ。

その現実を突きつけられ、意識が闇に飲まれていった。
次へ
前へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ