しっぽや1(ワン)

□上弦の月〈2〉
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side<JYOUGEN>

胸が痛くて痛くて、身体が動かなくなってきて、目が見えなくなったとき『死の淵』ってやつが見えてきた。
目が見えないのに『見えた』と言うのはおかしな話だが、暗黒の深淵(しんえん)を感じたのだ。
同時に明るい光も感じられたが、俺はそちらに行く気にはなれなかった。
光の中でもう一度犬に生まれ変わって、あのお方に拾ってもらいたい誘惑を俺は押し止める。
それよりも俺には『化生』という存在の方が魅力的に思われた。

『化生』である彼らとは、暫く同じ宿にいた。
彼らは死んだ後に獣の輪廻の輪から外れ、人として暮らしながら新たな飼い主との出会いを選んだ者達なのだ。
『人の役に立ちたい』と言う思いを胸に『人に化けて生きていく』。
その思いは俺にも痛いほど良くわかる。
俺も人になって、あのお方を助けながら生きていきたかったからだ。
俺が人であれば、あのお方だけを働かせることもなく、犬連れという理由で宿や乗り物を断られることもなく、あのお方と店に入って共に食事することも出来ただろう。

『きっとこの暗闇の先の方が明るいはずだ』
そんな希望を胸に、俺は長い長い闇を駆け抜けた。
俺は駆け抜けた先で、望み通り化生する。
あの化生達と出会えれば、きっとあのお方の所に連れて行ってもらえると俺はそう考えていた。
しかし、その考えは甘いものであったと思い知らされる。
あのお方の居場所は誰にもわからなかった。


あのお方に会えないまま、俺はしっぽやで働き始めた。
あのお方と会えたとき助けになるようにと同じ仕事を始め、俺は初めてあのお方がどんなに大変な思いをして犬であった俺の面倒を見ていてくれたのかを実感した。
早くあのお方と再会したかった。
少しでもご恩返しがしたかった。
どれだけあのお方を愛しているか、人の言葉で伝えたかった。
俺の焦りをよそに、時間は残酷に過ぎていく。

俺が化生して10年以上の時が流れたが、杳(よう)としてあのお方の行方を知ることはできなかった。



「そろそろ引っ越し時かな」
カレンダーを見ながら黒谷がそう呟いた。
「そうですね、秩父先生も言っておりましたし」
白久が腕を組んでその言葉に頷いた。
「工事の方は良いけどさ、何でも屋の方は引っ越した後の顧客確保が大変なんだぜ」
新郷が少しムクレてみせる。
「だって、こっちに移ってきてから新郷が子守で面倒見てた子、そろそろ中学生だろ
 流石に怪しまれるんじゃないの?
 人間の目って見てないようで、近所の様子なんかはけっこー見てるんだよ
 まあ、俺は仕事を追って流れて暮らすの性に合ってるから、新しいとこも楽しみだけどな」
俺は新郷に笑いかけた。

「引っ越しと言っても、秩父診療所からはそんなに離れない方が良いから隣町辺りで良さそうなアパート探してもらおう
 全く知らない土地でもないし、近場だから『しっぽや』の噂聞いたことある人もいるかもね
 そうすれば、利用してくれる人もいるよ」
黒谷の言葉に
「だな」
新郷が明るい顔をみせた。
「よし、そうとなったら早速秩父先生に連絡してみよう
 次の休診日に会えるか聞いてみるか」
新郷が秩父先生に電話をかけ始めた。

「すまないね、もっと遠くに移動できれば岩さんの手がかりが掴めるのかもしれないのに」
黒谷が申し訳なさそうな顔で謝ってくる。
「いや、闇雲に移動してもダメだってわかってるよ
 この国は広いんだ『手がかり』ってやつがなきゃ、人探しなんて無理だ」
俺は首を振って苦笑した。
「随分様変わりしていくけど、あのお方との思い出に近い場所で暮らしていくのも良いかなって思うんだ
 あのお方が作ってくださった道を歩いてるのかも、って思うだけでこの近辺の町が愛おしくなる」
俺の言葉に、黒谷は寂しそうに微笑んだ。
「分かる気がするよ
 あのお方が守ってくださったこの国にいるだけで、僕もこの国が愛おしい」
俺達は窓から外を眺め、暫く思い出に浸るのであった。


秩父診療所の休診日、俺達は秩父先生の自宅に出かけて行った。
「皆、元気そうで何よりだ
 アパートのことは懇意の不動産屋に聞いてみてるから、もう少しまっててね」
秩父先生は目を細めて、笑顔で俺達を迎えてくれた。
化生して初めて会った頃より年を取って見える。
俺を飼ってくれていたあのお方の年に近付いているのだろう。
『そのぶん、あのお方も年を取ってしまっているんだろうな…』
そう考えると、心の中にどうしようもない焦りが生じてしまう。
『あのお方が生きているうちに再会することは、2度と無いのだろうか
 いや、希望は捨てちゃダメだ!』
挫けそうになる心を叱咤し、俺は俯いていた顔を上げる。

上げた顔の先にいる親鼻の、秩父先生に向けている愛おしそうな視線が羨ましかった。
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