しっぽや1(ワン)

□芝桜の幸せ
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side〈SAKURA〉

ピー、ピー、ピー

微かな電子音が明るくなってきた部屋に響きわたる。
「…ん」
俺を抱きしめていた新郷がベッドサイドに手を伸ばし、スマホのアラームを停止させた。
「おはよう新郷、晴れているようだな」
まだ眠そうな彼の顔を見ながら声をかけると
「おはよ、桜ちゃん
 絶好の花見日和みたいだよ」
ニヒッと笑ってキスをしてくれた。

今日は土曜日で仕事は休みであるが、芝桜を見に行くために普段より早起きをしたのだ。
「この日のために仕事のきりをつけたんだ、今日はのんびりしよう」
「せっかくの芝桜のシーズンだもんね
 やっぱ、年1回くらいは見に行っときたいじゃん
 染井吉野や八重桜なんかも良いけど、芝桜だって可愛くて可憐だよ
 名前がまた良いしさ
 俺と桜ちゃんの桜」
上機嫌の新郷がベッドから抜け出して、着替え始める。
初めて会ったときとほとんど変わらない容姿の彼を見ながら
『俺はずいぶん年を取ってしまったな』
と心の中で苦笑してしまう。
初めて新郷と会ったとき、俺はまだ大学生だった。
『それが今では30代後半のオジサンか』
いつも新郷が俺のことを『可愛い』と言ってくれるのであまり意識していなかったが、ふとした瞬間に自分の年を感じてしまう。

「桜ちゃん?」
敏感に俺の感情を察した新郷が、伺うように顔をのぞき込んできた。
「朝ご飯は塩鮭と鯵の干物、どっちにしようか」
自分の思いを誤魔化すように俺が問いかけると
「鮭にして、卵焼きも作ろう
 後は味海苔に白菜のおつけ物、豆腐の味噌汁付ければ旅館の朝食みたいじゃん」
新郷は少し考えた後、笑顔でそう答えた。
「豪華だな」
俺が笑うと
「すぐ作るから待ってて
 桜ちゃんは、持って行く物の準備お願いします」
新郷はエプロンを付けながら、ウィンクして答えるのであった。

俺は着替えると、昨夜から水出ししておいた緑茶を2本のボトルに詰め替えた。
まだ朝晩は肌寒いが日中は暖かな日差しになるし、歩き回るのでノドが乾くと思い用意したのだ。
芝桜が咲いている公園までは電車での長時間の移動になるため、文庫本も鞄に入れる。
のど飴やハンカチ、ティッシュといった定番の小物を用意し終わる頃には朝食が出来上がっていた。

年代物のちゃぶ台に並ぶ典型的な朝食。
それは、いつ見てもノスタルジーを感じさせた。
「新郷の作るご飯は、いつも美味しそうだ」
俺が座って箸を取るのを、新郷は嬉しそうに眺めている。
「桜ちゃんに喜んで貰えるのが、俺の喜びだよ」
俺の言葉に、新郷は誇らかに笑った。

「そだ、俺も電車の中で何か読もうと思って長瀞に雑誌借りたんだ
 鞄に入れとかなきゃ」
食事の途中、新郷が自分用の鞄に雑誌を入れ始めた。
「長瀞、雑誌なんか読むのか
 って、新郷も?」
俺が少し驚くと
「うん、レモンページって料理雑誌
 『魚を使った簡単おかず特集』ってのが面白そうだったから借りてみたんだ
 後『春の行楽弁当特集』ってやつ
 こないだの夜桜見物のとき、日野が見事な巻き寿司作ってきただろ?
 ちょっと負けられないと思ってさ」
新郷はニヒッと笑う。
「勉強熱心なんだな」
俺が微笑むと
「桜ちゃんの健康を守らなきゃね」
新郷からは、そんな健気な返事が返ってきた。
「ありがとう」
俺は幸せな思いを感じながら、お礼を言うのであった。

「桜ちゃんは、こないだ買ったミステリーの新刊持ってくの?
 ここんとこ忙しくて、本読む暇もなかったもんね
 あ、その前に買ってたやつも読んでないんじゃない?」
新郷に指摘され
「情けないが、最近は『積ん読』状態が多くてな
 学生の時は夜更かしして読みふけったもんだが
 俺も、年を取ったな」
俺はまた、自分の年を感じてしまう。
「しょうがないよ、桜ちゃんの夜の時間、俺が奪っちゃってるんだもん
 って、明日も休みだし、今夜、1回くらい良い?」
伺うような新郷の視線に、俺は頬が熱くなるのを感じた。
そう言えば彼と暮らすようになってから、夜更かしして本を読む習慣が無くなっていったことを思い出したのだ。
若い頃と変わらず俺を求めてくれる、新郷という存在に対する愛しさがこみ上げる。

「まあ、お前が疲れているのでなければ、その…
 別に1回と言わず、何回でも付き合うというか…」
俺が言葉を濁しながら呟くと
「本当?俺、頑張っちゃう!」
新郷は顔を輝かせた。
「いや、でも、限度はあるぞ?」
慌てる俺に
「大丈夫、桜ちゃんの様子見ながらするから
 桜ちゃんが具合悪くなっちゃったら、元も子もないもん」
新郷はもっともらしく頷いている。

「さあ、食べ終わって一息付いたら家を出るぞ
 電車1本乗り遅れると、到着が大幅に遅れるからな」
冷静さを取り戻そうとする俺の言葉に
「了解」
新郷は満面の笑みで答えるのであった。
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