しっぽや1(ワン)

□夏の空 3
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「そうだ、自分で吐き出すんだ
 大丈夫、俺がついてるからな」
俺が支えて立たせてやると、クリームはゲフゲフと水を吐き出した。
恐怖のためか、怯えて混乱したクリームは
『クウおじちゃん、クウおじちゃん、たちけて、たちけてー!』
必死で俺を呼んでいた。
「大丈夫、俺はここにいるよ、もう大丈夫だからな」
あらかた水を吐き出したものの、まだ上手く動けないクリームを抱きながら、俺はその場に座り込んだ。

気が付くと、樋口の姿はどこにも無かった。
『ま、そうだろうな
 訳わかんない事まくし立てるし、入っちゃいけない場所に入るし、藻の浮いた泥水でビショビショだし…
 俺、カッチョワリー』
ガックリと肩を落としながら、それでも腕の中で元気に尻尾を振り始めたクリームの温かさにホッとしてしまう。

「こっち、こっちです!」
樋口の声にハッとして顔を上げると、樋口と女の人と女の子が走って来るのが見えた。
「クリーム!」
女の子は首輪の付いたリードを手にして、ワンワン泣いている。
『あ、マナちゃんだ!クウおじちゃん、僕、家来が出来たの
 マナちゃんって言うんだよ
 マナちゃんに、あの水の中にいた赤いの捕ってあげようと思ったの』
無邪気なクリームの言葉に
「ありゃ、『ザリガニ』って言うんだ
 鼻挟まれたら、痛いぞ」
俺は笑いながら教えてやった。

女の人も女の子も、ペコペコしながら何度もお礼を言ってクリームを連れて帰って行った。
「一応、病院で診てもらってくださいね」
樋口の言葉に頷いてくれたので、あいつはもう大丈夫だろう。
「ありがとう、飼い主、探してきてくれたんだね」
俺が礼を言うと
「服、泥だらけになっちゃいましたね
 僕の家近いから、寄っていってください
 うち、乾燥機付の洗濯機だから、洗ってもすぐ乾きますよ」
樋口ははにかんだ笑顔で、そう言ってくれる。
モチロン、俺はその言葉に甘えることに決めていた。

「え?ここって…」
樋口の家は影森マンションだった。
「俺も今、ここの最上階にいるんだけど…
 樋口さんがいるの、全然気が付かなかった」
俺は呆然と口にする。
「最上階なら直通エレベーター使ってるんでしょ?
 なら、会わないですよ
 あのエレベーター利用するのに暗証番号必要だし、上の階にどんな人が住んでるのか僕らには全くわからないですね」
樋口は納得したように言う。
「ここのマンションって、変わってますよね
 もともと転勤族の利用が多いから2、4年目の更新料は無料、賃上げ無し、6年目から一気に家賃が上がるってシステム
 そのせいか、住人のほとんどが3〜5年で引っ越ししますからね
 近所の人の顔、あまり覚えられなくて
 最上階と、そこから3階下は企業借り上げの特殊ゾーンだから、同じマンションに暮らしていると言っても未知の領域ですよ」
そんな樋口の説明を聞きながら、俺はいつも利用するのとは違うエレベーターで上まで上がっていった。

4階で降りて通路を行くと『樋口』と書いてある表札があった。
3人分の名前が書いてある。
「あの、どれが樋口さんの名前?」
俺が聞くと、彼は暫く黙り込んだ。
「この、1番下のが僕です…
 『一葉』って書いて、『カズハ』って読みます…
 ベタ過ぎて、嫌なんですよ、この名前」
樋口は言い難そうに教えてくれた。
「カズハ…」
声に出して言ってみて、俺は唐突に理解する。
俺が『武州』を名乗るように、『樋口』というのは彼が所属するコミュニティーの名前なのだ。
彼そのものを現す言葉は『カズハ』だ。
それを教えてもらえた事が、とても嬉しかった。
「凄く素敵な名前じゃないっすか!
 今度から『カズハ』って呼んでいい?」
俺が聞くと、カズハは暫くためらっていたが
「はい」
少し赤くなりながら、小さな声でそう答えた。
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