しっぽや1(ワン)

□夏の空 1
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「どうかなさいましたか?」
缶詰めを並べていた女の人が俺の方に近付いてきた。
「あ、いえ、あの、オシッコが…」
俺は慌ててマヌケな事しか言えなかった。
「あらあら、いつもはシーツの上でちゃんとするのに
 間に合わなかったのかな?
 今、掃除しますからね
 ヒグチ君、ちょっとお願い出来る?」
その女の人が声をかけると、ドライフードを並べていた男が立ち上がった。
「はい」
まだ若く、小柄で眼鏡をかけたひ弱そうな奴で、長めの髪を後ろで一つに縛っている。
大柄でスポーツ好きで、筋トレを欠かさなかった俺の以前の飼い主とはえらい違いだ。
なのに、何でだろう…
彼を見た瞬間、胸が締め付けられるように痛んだのだ。

『え?そんな、まさか、俺
 あんな貧弱な奴に…?飼ってもらいたいって思ってんのか?』
俺は自分の想いに激しく動揺する。
『ヒグチ』と呼ばれた男が近付いてきて、俺の側を通りケージの裏に回る。
オシッコをしてしまった犬のケージを開け、掃除をし始めた。
俺はその場を動けず、その人をずっと見つめ続ける。
その人が店内に戻ってくると
「あの、すいません!」
俺はたまらずに話しかけていた。
彼は、怪訝そうな顔を向けてくる。
『何か言わなければ!』
焦る俺は
「あいつ、ちゃんとシーツの上でしなきゃいけないって、知ってるハズです
 俺がちょっとビビらしちゃったみたいで…
 あいつのこと、怒らないでやってください、ぶったりとかしないでください」
そんな事を話しかけてみる。
自分でも、多少バツの悪い思いは感じていたからだ。

彼は俺を見つめると、少し笑ってくれた。
その笑顔に俺は胸がいっぱいになり、この店の心地よさは彼の気配から感じられるものであった事を理解する。
「大丈夫ですよ、うちの店は体罰で躾を入れませんから
 それに、そんなことしてるお店、無いと思いますよ?
 気に入ったのなら…抱いてみますか?」
彼は俺を見透かすように、そんな挑発的な事を言った。

『あれ?抱くって、そーゆー事だよな…?』
あのお方はそう言って、何人もの女の人をマンションに連れてきていた。
外飼いの犬より、俺は人間の『情事』ってやつには詳しいと自負している。
「え?いや、そんな会ったばかりで…
 そりゃ、凄く良いなって思ったし、はっきり言って抱きたいですけど
 あ、でも、その…」
俺は柄にもなく照れまくるしかなかった。
「沢山の人に抱っこしてもらって、人に慣れさせた方がこの子にも良いんです
 無理に『買え』なんて話はしませんから、少し遊んでやってください」
『ヒグチ』はチビったダックスを指し示して微笑んだ。
『何だ、犬の話か…』
俺はガックリしつつも、まだ『ヒグチ』と離れたくなかったのでチビをダシに使う事にする。

「毛色から『クリーム』って呼んでる子なんです
 名前、きちんと付けると情が移っちゃいますからね」
『ヒグチ』(胸の名札を見たら漢字で『樋口』と書いてあった、後で中川先生に書き方を教えてもらおう)はそう言いながら俺にダックスを手渡した。
チビ、クリームは俺に怯えて『降参』のポーズをとったまま腕の中で固まっている。
「俺は、『くう』っつーんだ、漢字で書くと『空』だぜ、スカイってやつ!
 広々してるだろ?」
俺がクリームに話しかけると
「『くう』…大きい方なのに、チワワみたいな名前ですね」
樋口はまた笑ってくれた。
意味はわからなかったが、樋口が笑うだけで俺も楽しくなった。

俺が遊んでやると、すぐにクリームは俺に懐いて
『クウおじちゃん、もっと遊んで!』
短い足をバタバタさせながら、俺を追いかけるようになった。
「空、待たせたな、そろそろ行くぞ」
波久礼の兄貴が近付いてくるとクリームは怯えまくって
『クウおじちゃん、たちけてー』
俺にすがりついてくる。
「兄貴、恐ろしい顔、急に見せんなよ
 クリームがびっくりしてんだろ、つかお前は俺の事『おじちゃん』って言うな
 お兄ちゃんと呼べ」
俺はクリームをたしなめると、樋口にクリームを手渡した。
「あの、また、会いに来ても良いかな」
ドキドキしながらそう聞いてみると
「どうぞ」
彼は笑いながらそう言ってくれる。
俺は、幸せな気持ちでいっぱいだった。
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