しっぽや1(ワン)

□夏への扉
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side〈ARAKI〉

梅雨が明け、初夏になると夏休みがもうすぐそこである。
『休み中は、もう少しバイトの日数増やしたいな…
 白久と一緒に居たいし』
そんな事を考えながら、俺(野上 荒木)はいつもの週末のように学校の帰りにバイト先である『しっぽや』へ向かっていた。
歩いているだけで、汗がダラダラと流れてくる。
もうすっかり『夏』といった感じの暑さであった。
早くエアコンの効いた事務所に入りたくて、俺は小走りにテナントビルの階段を上がっていく。
事務所の扉の前に来ると
「いつかやるんじゃないか、とは思ってたけど、まさか本当にやるとは…
 うちでは手に負えないよ?」
黒谷の呆れたような声が響いてきた。
「あ、でも、これはだな…」
波久礼の困ったような声も聞こえる。
『あれ、波久礼さん来てるんだ、ミイちゃんも居るのかな?』
俺は軽い気持ちでノックし、扉を開けた。

「やあ、荒木いらっしゃい
 悪いね、シロは今、急ぎの依頼が来て出てもらってるんだ
 そんなに時間はかからないと思うから、少し事務所で待ってて」
黒谷がそう挨拶してくる。
「うん、わかった
 波久礼さん、こんにちは
 ミイちゃんも一緒?」
俺はそう言って事務所内を見回すが、ミイちゃんの姿は見えなかった。
「三峰様は本日いらしておりません
 お暇をいただいたので、私が1人で来ているのです
 荒木殿、私の事は『波久礼』とお呼びください」
波久礼は礼儀正しく大きな体を折り曲げて、深々と礼をした。
「ああ、うん、なら俺の事も『荒木』って呼んで」
俺はどうにも『様』とか『殿』とか呼ばれるのが、むず痒かった。
「ご命令とあれば、そうさせていただきます、荒木」
また、波久礼が深々と礼をする。
森林オオカミの血が98%入っている狼犬の化生のせいか、とても日本人には見えないのに、波久礼は礼節を重んじる日本人そのもののような人だった。

「ところで、少しもめてたみたいだけど、どうしたの?
 厄介な依頼でも来た?」
俺は扉の前で聞いた会話を思い出し、そう聞いてみる。
「そうそう、聞いてよ荒木
 こいつ、人間の子供みたいな事しちゃってさー
 こーゆー場合、どうすれば良いの?
 さすがに『元の場所に返してきなさい』なんて言いたくないし」
また、黒谷が呆れた声を出した。
波久礼は大きな体を竦ませて
「う…だが、見つけてしまったのだから、放っておけぬだろう…」
弱々しく反論する。
俺には話がちっとも見えなかった。

そんな時
「ミイイイ」
突然、事務所内に子猫の泣き声が響き渡る。
波久礼が慌てて、スーツのポケットに手を入れた。
『え?今の、波久礼の着信音?
 随分可愛いの設定してるんだな』
俺は少し驚いてその手元を見つめたが、波久礼がポケットから取り出したものを見て
「ちょ、どうしたの?それ…」
思わず大声を上げてしまった。
波久礼が取り出したのは、生後1ヶ月になるかならぬかの、本物の小さな子猫であったのだ。
「ああ、とにかく、猫用ミルクとほ乳瓶を買ってこなくては
 後は何が必要だったか…
 あのお方が子猫の人工飼育をする際は他に何を用意しておられたか、店に行って確認せねば
 荒木、すみませんが買い物に行っている間、面倒をみてやってください」
波久礼は俺の手に子猫を押し付けると、物凄い早さで事務所を出て行った。

「あいつの猫好きは知ってたけど、まさか子猫を拾うとは思わなかったよ」
黒谷が心底呆れたように呟いた。
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