しっぽや5(go)

□これから始まる物語〈9〉
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「そうだ、事務所にも行ってみる?」
商店街を抜けた辺りで伊古田がそう誘ってくれた。
「事務所って、ペット探偵の?僕みたいな部外者が行って良いの?」
守秘義務とか個人情報保護とかを考えると、うかつに入り込めない場所だと思っていたので彼の言葉には酷く驚いた。
「カズハとかナリとか、よく遊びに来てるよ
 皆に野坂のこと自慢したいなって思って、ダメかな?」
窺うように伊古田に見られ
『いきなり職場で知らない人達に紹介されるって恥ずかしすぎる
 でも探偵の職場、見てみたい』
僕の気持ちは真っ二つに分かれていたが、結局人見知りより好奇心が勝ってしまった。


いったんマンション前に戻り、そこからしっぽやの事務所に移動する。
「駅に行くより近いんだね、職場が近いって良いじゃん」
しっぽやは雑居ビルの2階に入っていたが、窓付近に看板は無くかろうじてビルの案内板に名前が記載されているだけだった。
不動産屋と会計事務所に挟まれているので、利用客が被ることもなさそうだ。
本当にこじんまりとした事務所のようであった。


コンコン

伊古田がノックして、オープンの札が掛かっている事務所のドアを開ける。
「今ね、野坂とお散歩してる最中だよ
 近所を案内してるの」
得意げな伊古田に続いて事務所に入った僕は、所長のプレートがのっている机のイスに座っている黒谷さんに慌てて頭を下げた。
「お仕事中すいません」
畏(かしこ)まる僕に
「伊古田と一緒にいてくださってありがとうございます」
黒谷さんも丁寧に頭を下げてきた。
「伊古田、お金は足りてる?
 ほら、これで2人でお昼でも食べなよ
 昨日の働きの臨時ボーナス」
黒谷さんは自分の財布から1万円札を数枚取り出して伊古田に手渡していた。
『明細とか渡さないのかな、何かポケットマネーに見えるんだけど』
突っ込みたいところではあったけど、僕自身バイトをしたことがないので企業の給料形態がよくわからなくて黙って見ているほか無かった。

控え室の文字が貼ってあるドアが開き、そこから大麻生さんが姿を現した。
見知った顔だったのでホッと胸をなで下ろす。
「大麻生、僕、野坂と付き合うことになったんだ」
いきなり暴露する伊古田に焦ってしまうが、大麻生さんは大真面目な顔で
「良かった、ウラがスタイリングした甲斐があったというものだ
 和泉にお願いしてもっと服を用意してもらおうか
 取り敢えず久那に連絡しよう」
スマホで誰かと話し始めていた。

次に出てきた人を見て、僕は全身が固まってしまった。
『チンピラ?何で探偵事務所に?』
それはとてつもなく恐ろしい人相の大男だった。
伊古田は屈託無くその人物に近づき
「あのね、僕と付き合ってくれてる野坂だよ」
そう僕を紹介している。
チンピラさんは僕をジロリと一瞥し
「マジか!伊古田みたいなおっかねー顔のやつと付き合ってくれるなんてミャクアリってやつじゃん」
そう言って笑っていた。
『いや、貴方の方が伊古田より何倍も恐ろしい顔です』
と突っ込みたかったけど、怖すぎて言えなかった。

「あ、野坂は大きい犬が怖いから、あんまり脅かさないでよ」
伊古田が言うと
「何言ってんだ、俺みたいな可愛いパピーちゃんを怖がるやつはいないだろ
 1日に何回もカズハから『可愛い』って言われてるんだから」
彼は得意げに答えていた。
「僕だって野坂に『可愛い』って何度も言われたよ」
対抗するように言った伊古田の言葉で、頬が赤くなってしまう。
誉め言葉として喜んでくれてるのなら何度でも言ってあげよう、と何だか吹っ切れた心持ちになった。

伊古田は控え室の同僚にひとしきり僕とのことを自慢した後
「後で、皆がどうやって乗り越えたか教えてください
 僕はまだ勇気が出せなくて伝えてないから…」
小さな声で呟くように言って、頭を下げていた。
皆、それを聞いて神妙な面もちになる。
あのチンピラ君でさえ労るような真剣な眼差しを伊古田に向けていた。


挨拶が済むと僕と伊古田は事務所を後にして、ランチを食べに行くことにした。
僕に『犬に慣れて欲しい』との伊古田の意向でドッグカフェに行くことになった。
「食事が美味しくて、犬連れじゃない人も多いんだ
 あそこを利用してる犬達はお行儀良いから、野坂も触らせてもらえるよ」
伊古田は僕が犬を怖がらなくなるよう特に気を使っているようだった。
『一緒に犬嫌いを克服したいのかな、伊古田は職業柄あの状態じゃ厳しいもんね
 彼と付き合うんだから、僕も頑張ってみよう』
自分でも彼と一緒に何か出来ることがある状態に、くすぐったいような喜びを感じていた。


伊古田と別れ難かったが夕方には帰路についた。
何とか一人で家まで帰れてホッとしたし、また彼の所に行くことへの自信につながった。
帰りの電車で読もうと楽しみにしていた本は手付かずで、ずっと伊古田との楽しかった時間のことを考えていた。
家に帰り着くと親には外泊と自主休講を怒られたけど、伊古田に会うことを控える気にはならなかった。

僕は自分で思っているよりずっと、伊古田のことが好きになっているのだった。
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