しっぽや5(go)

□これから始まる物語〈8〉
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side<IKOTA>

『……タ、お父さんの機嫌が悪いから、今夜は一緒に寝かせてよ』
あのお方はよくそう言って、僕の寝床(と呼べる物ではない、古新聞が敷いてあるだけの小屋の中だ)に夜中に潜り込んできた。
『…ータと一緒だと温かいや』
あのお方は嬉しそうにクスクス笑う。
『本当は、1頭の犬だけを可愛がっちゃいけないんだ
 でも、君が1番長く僕と一緒にいてくれるから、ついね
 僕達が出会ってからもう3年も経ったんだ、それって本当に凄い事だよ
 他の犬は半年保たずに死んじゃうもの』
あのお方は悲しげに
『皆、試合に出る犬に殺されちゃう…』
ポツリと呟いた。

『ずっと僕と一緒にいてね、約束だよ
 …ータは僕と居てくれる、そう思うだけで僕はこれからも頑張れるから』
僕にギュッとしがみついてくるあのお方の身体は、初めて会った時より成長していても僕よりとても小さくて頼りない。

僕が、側にいます。
ずっとずっと、貴方の側に居ます。
これからも側に居られるなら、僕はどれだけ噛まれても良いと思った。
僕があのお方の顔中を舐め回すと笑顔が戻り
『コータ、大好き』
そう言って抱きしめてくださった。


そうだ、僕はあのお方に『コータ』と呼ばれていた。
痛くて怖くて悲しい生活も、優しく名前を呼んでくれるあのお方が居たから耐えられたのだ。




意識が混乱する目覚めが訪れた。
思わず辺りを見回してあのお方の姿を探してしまう。
『夢…か…』
幸せな夢であるほど、目覚めた後に辛さを感じる。
しかし夢の残滓(ざんし)に浸っていたのはホンの一瞬で、直ぐに現実を思い出した。
『そうだ、野坂が来てくれてたんだ!
 野坂をほっといて、僕、どれだけ寝ちゃったんだろう』
部屋を見渡しても野坂の姿はない。
『きっと、呆れて帰っちゃったんだ』
絶望に沈み込む僕の鼻孔に良い香りが届いてきた。

「伊古田起きた?そろそろ起こそうと思ってたんだ
 寝る前に温まろうかな、って、ナリに貰った紅茶淹れてた
 良い香りのアールグレイだよ、伊古田の分も淹れたんだけど飲む?
 勝手に食器使っちゃってごめんね」
カップを2つのせたトレイを持った野坂がキッチンから現れる。
彼の姿を見れた安堵のあまり、僕は全身の力が抜けてしまった。
「まだ、居てくれたんだ」
思わず口にすると
「だから、駅までの道が分からないんだってば
 僕、凄い方向音痴だから」
野坂は赤くなりながら口の中でモゴモゴ呟いていた。

「はい、どうぞ」
野坂が手渡してくれたカップは温かく、とても良い香りがする。
「アールグレイってどのメーカーも大外れがなくて、フレーバーティーのお裾分けには最適だよね
 これ、ベルガモットの香りが強いけど僕はその方が好みかな」
「そうなんだ、僕、お茶って事務所でしか飲まないから全然分からないや
 家では牛乳とか水飲んでる
 野坂は何にでも詳しくて凄いなあ」
僕は感心してしてしまった。
「いや、その、おかあ…、母が紅茶好きだから、その受け売り」
野坂は頬を赤らめて
「伊古田だって凄いよ、あんな大きなシェパードに向かっていったんだもの
 卒業メダルに気が付いたの?」
そう聞いてきた。
想念を交わしてみたら『クウセンセ(空先生)の気配がする』って最初から友好的な人だった、とは野坂には説明できない。
「あ、うん、チラッとメダルが見えた気がして、もしかして、そうかな、とか」
納得させられる答えだったかは怪しいけど
「とにかく野坂を守りたくて必死だったんだ」
それだけはキッパリと断言した。

「あ、あの、……、ありがと、凄く嬉しい」
「野坂に誉めて貰えると…、僕も嬉しい」
僕達はモジモジしながら見つめ合っていた。

「あ、紅茶冷めちゃうね」
僕は慌てて1口飲んでみる。
ミカンとは違う柑橘系の香りが爽やかで、少し甘かった。
「疲れてると思って砂糖入れたんだけど、無糖の方が良かった?」
心配そうな顔で聞いてくる野坂に
「美味しい、凄く美味しい、事務所のお茶の時間に飲んだのより何百倍も美味しいよ!」
僕はそう伝えた。
彼はホッとしたような顔になり
「伊古田はオーバーだなー」
そう言って自分もカップに口を付けていた。


部屋の中に紅茶の良い香りが満ちて、ゆったりとした時間が流れていく。
このまま時が止まれば良いのに、と思ってしまった。
でもここで止まってしまったら、僕が野坂に飼ってもらう未来はおとずれない。
あのお方との果たせなかった約束。
『ずっと一緒にいる』
僕は今度こそ、その夢を叶えたかった。
その相手は野坂以外考えられない。

物思いに沈む僕の顔をマジマジと見ていた野坂が
「伊古田、まだ疲れた顔してるね
 このまま朝まで寝ちゃいなよ
 明日は仕事休めるんでしょ?朝もゆっくりしよう
 僕もサボりと言うか自主休講にするからさ
 もう少し一緒に居られるよ」
驚くようなことを言ってくれた。
「明日も一緒に居てくれるの?明日も?一緒?」
信じられず何度も同じ事を聞く僕に
「うん、伊古田が嫌じゃなかったら明日も一緒に居よう」
野坂は照れたように返事をしてくれるのだった。
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