しっぽや5(go)

□これから始まる物語〈7〉
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いったん通話を終了し、送ってくれる人からの連絡を待つことになった。
「野坂も送ってもらえることになって良かった
 あんまり帰りが遅くなると危ないもんね、野坂は可愛いからちょっと心配だったんだ
 それに、また野坂と居られる時間が増えた
 君のおかげだよ、やっぱりシェパードは正義の犬だね」
伊古田は満面の笑みで犬の頭を撫でまくっている。
そんな伊古田を見ていて、この幸運がまだ続いてくれるのか試してみたくなった。

「あの、あのさ…もし、迷惑じゃなかったら、このまま伊古田の家に行ってみたいな…なんて…」
いつもだったら絶対に口にしない事を思い切って言ってしまった。
自分的には清水の舞台から飛び降りるような覚悟の発言だ。
「寝るのは床でも構わないから
 …って、いきなり行きたいとか迷惑だよね…」
勢いで言ったはいいものの、伊古田の困った顔を見るのが怖くて僕は俯いてしまう。
伊古田は暫く何も言ってくれなくて、僕の不安はどんどん膨らんでいった。
『ああ、バカなこと言っちゃった、迷惑に決まってるじゃないか
 僕なんかが家に行くなんて』
泣きたい気持ちで顔を上げ伊古田を見ると、彼は呆然とした表情で僕を見ていた。

「え?え?それってつまり、野坂が僕の部屋に来るって事?
 野坂が僕なんかの部屋に?事務所じゃなくて?
 野坂の好きそうな物なんて何もない、僕の部屋に?」
僕の言葉は、まだ正確に彼の脳に達していないようだった。
「と言うことは今日はこれからも野坂と一緒に居られるの?明日の朝も?
 そんなに長い時間一緒にいてくれるの?」
彼の驚いた顔には迷惑そうな戸惑いは一切見られなかった。
「あの、本当に良かったらだけど
 だって伊古田、明日は仕事でしょ?」
その表情に少し安堵して言葉を続けることが出来た。
「おもてなし!僕ちゃんとおもてなしできるかな
 部屋に何かあったっけ?こんなことならお菓子とか買っておけば良かった
 安全だけど面白くない部屋だもん、野坂に呆れられちゃう
 ああ、でもあの部屋で野坂と過ごせるなんて、都合の良い夢みたいだ」
伊古田はパニックを起こしていたが、僕が彼の部屋に行くことは決定事項としているようだった。

そんなときスマホの着信音が流れ、2人とも我に返る。
「伊古田、出て」
「あ、うん、えっと、どこ触るんだっけ
 変なとこ触ると切れちゃうんだよね」
焦る伊古田の手元をのぞき込み
「ここ」
そう指さすと彼は少し落ち着きを取り戻して通話に出ることが出来た。
「もしもし、伊古田です
 うん、うん、えっと、向かいの道の先にコンビニがあるよ
 そうなの?それだけでわかるの?なび?黒谷にも説明された?
 凄いね、じゃあ待ってる」
通話を終えた伊古田は
「あまり遠くない場所に居たから、直ぐ来てくれるって
 なび?って言うの見ればわかるんだって
 凄いなー、ナリはバイクにも乗るから道に詳しいんだ」
感心したようにそう言った。
確かに、方向音痴の僕にとってもナビを見て移動できることは凄いことに思われた。


程なく、ワゴン車が近づいて来た。
「あれだ」
伊古田は停止した車のドアを開けようとしたが上手くいかず
「伊古田、横にスライド…、っと、取っ手を上に上げてそのまま引き戸の要領で開けて」
見かねた運転者が声をかけてきた。
その響きは優しくて、車のドアも開けられない伊古田にイライラしている様子は微塵も感じられなかった。
「犬が真ん中になるように2人で挟んで乗ってね
 しつけ教室通ってるから大丈夫だと思うけど、一応、窓からの飛び出し防止」
その指示に従い、伊古田、シェパード、僕の順で車に乗り込んだ。
シェパードは車慣れしているようで、僕と伊古田の間で当然のような顔をして大人しく座っていた。

「初めまして、私は石原 也と言います
 ナリで良いですよ
 最近はさすらいのアルバイターと言うか、便利屋みたいな事をやってますが、一応の本職は占い師です」
本気なのか冗談なのか、彼はクスクス笑いながら言って車を発進させた。
真っ直ぐで艶やかな黒髪をおかっぱ風にした、穏やかそうな人だ。
「先に犬を送り届けたら自宅までお送りしますよ
 あ、住所知られるの不安かな?ナビの履歴は消しておきますから」
「野坂 始です、野坂で良いです
 えっと今日は家に帰らないで、これから、その…」
流石に初対面の人に言うのは恥ずかしく言いよどんでしまう。

「あのね、野坂はこれから僕の部屋に来てくれるんだよ
 明日の朝までずっと一緒に居られるんだ」
僕の言葉の後を、伊古田が無邪気に続ける。
僕は頬が熱くなるのを感じていた。
きっと真っ赤になってしまっているだろう。
「凄い、それは良かったね
 野坂の方は大学大丈夫?まあ、遅刻しても荒木や近戸が上手くやってくれると思うけど
 伊古田と一緒にいることを考えてくれてありがとう
 伊古田、明日はふかやが頑張るから仕事は休むと良いよ」
責任者でもないナリがそんなことを言い出したが、きっと黒谷さんも同じ事を言うんじゃないかと思わせる雰囲気が、しっぽやという場所から感じ取れるような気がするのだった。
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