しっぽや5(go)

□これから始まる物語〈2〉
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side<IKOTA>

世の中の何もかもが怖かった。
小さい頃はそんなこと無かった気もするけど、もうその時のことは思い出せない。
自分がどうやってここに来たのかも分からなくなっていた。
心の中には恐怖の記憶しか無かった。

『ほら、噛め、相手に食らいつけ!』

僕を連れてきた人間が怒鳴りつけ、その熱気に当てられた大きな犬が思いっきり噛みついてきた。

『キャン!!』

痛くて怖くて、何が何だかわからなかった。
僕は相手の犬に何もしていないのに、逃げる僕を執拗に追ってきて噛みつくのだ。
お腹だけは守らなければと本能的に感じて、尻尾を股の間に挟んでうずくまる。
がら空きの背中やお尻に相手の牙が食い込んだ。

『ヒ、ヒィー、ヒィ』

もう泣くことも出来ず鼻から空気が抜けていく音を立てるだけで精一杯だった。


人間が近づいてきて相手を引き離してくれる。
助かったと思った瞬間、身体にドンと衝撃が走り転がってしまう。
人間に、噛まれた傷の上を思いっきり蹴られたのだ。
あまりの痛みに悲鳴さえ上げられなかった。

『なんだこの犬は、見てくれだけの木偶(でく)の坊じゃないか
 外国産の闘犬だって言うから、大枚叩(はた)いたのによ
 ちくしょー、あいつ、今度会ったらブチのめしてやる』

その人間は何度も何度も僕を蹴り上げた。

『おい、暫くはこいつを死なせるんじゃねーぞ
 噛ませ犬として使うからな、せめて元は取らねーと
 こいつを倒せば若い犬も自信がつくだろう、昨日1匹死んだから丁度良いか
 しかし、噛ませ犬にしては高過ぎんだよ、くそっ』

人間はブツブツ言いながら去っていった。


『大丈夫?』
うずくまる僕に恐る恐る声をかけてきた人間がいた。
また蹴られると思い少しでも身体を縮めようとしたが、これ以上小さくはなれなかった。

『君は優しいんだね、相手に全く歯を立てようとしなかった
 君の大きさなら、ちょっと唸れば相手も警戒したのに
 それとも、争うのは嫌いなのかな』
僕がこれ以上怯えないように、小さな声で優しくそっと話しかけてくれる。
『怪我したところ洗ってあげるよ、バイキン入ると大変だもの
 本当は薬を塗ってあげたいけど、噛ませ犬に塗る薬は無いんだ、ごめんね
 薬は試合に出れる犬にしか使っちゃいけないって言われてるから』

人間は小さな手で僕の鼻先を撫でてくれた。
温かく優しい手、その手があったから僕はその後の辛い生活を耐えられたのだと思う。





「伊古田、大丈夫か?また夢見てたのか?」
目を開けると大きな犬が僕をのぞき込んでいた。
「きゃんっ!」
思わず悲鳴を上げて飛び退こうとした僕に
「俺だよ、俺、イケてるハスキーの海(かい)だって
 朝飯食いに行こう、お前と一緒だと一品多くもらえてお得!」
ハスキーは安心させるように笑顔(でも怖い顔)で話しかけてくる。
「ほら、顔拭いて」
海はさりげなく僕の涙を指で拭ってくれた。

「おはよう」
ちょっと照れくさく思いながら、僕は彼に挨拶をする。
化生してから暮らしているお屋敷の雑魚寝の間は、朝の喧噪に満ちていた。
「あれ、陸は?」
「波久礼の兄貴が買い出し中に猫拾わないよう、お目付役で一緒に出てった
 朝市で捕れ捕れの魚、買ってきてくれるってさ」
魚が好物の海はホクホク顔だった。
「伊古田、おはよー」
「朝飯の後に草むしり手伝って、日が高くなる前にやっちまわないと」
「オッス伊古田、洗濯物あったら出しといてな」
武衆の犬達が次々と声をかけてくる。
皆大きくて厳つい犬だけど僕に気を使ってくれる、優しい犬達だ。
彼らの気遣いのおかげで、僕はこの屋敷に早めに慣れることが出来ていた。


「伊古田、おはよう
 ここでの暮らしに随分慣れてきましたね」
食事の間で屋敷のボス、三峰様が声をかけてくださった。
「はい、皆のおかげです
 人間の生活のことも色々教えてもらえるし助かります
 人間のいっぱい居る所、僕も早く行ってみたいです
 僕が犬だったときと色々違ってるのを見てみたくて」
僕が答えると
「荒木や日野に渡して欲しいブレスが出来上がったの
 近々波久礼にお使いを頼もうと思っていたので、その時に一緒にしっぽやに移動するのはどうでしょう
 まだ早いかしら?」
小首を傾げて微笑んだ三峰様にそう聞かれた。

「行きたい!行きたいです!また荒木に会いたい!
 日野や白久や黒谷にも会いたいです!」
興奮して思わず声が大きくなってしまった。
「では、日程の調整をしておきます
 白久が使っていた部屋を使えるよう、ゲンに連絡しておきます
 こちらから持って行く荷物は少なくて済むでしょう
 白久のお古ですが、生活に必要な物は揃っていますから」
三峰様が去った後は武衆の犬達に
「しっぽやに移動か、元気でな」
「たまには帰って来いよ」
「他の犬に馴れてくれて良かった、向こうでも頑張れよ」
そんな風に好意的に話しかけられた。

『また、飼い主となる人間と一緒に暮らせるかもしれない』
そんな思いの中
「うん、頑張って一生懸命やってみる」
僕はそう答えるのだった。
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