しっぽや5(go)

□これから始まる物語〈10〉
4ページ/4ページ

暗い場所を落ちていたような気がする、歩いていたような気がする。
どれだけの時間闇に飲まれていたのかわからない。
一瞬のような永遠のような、ここは全てが曖昧な場所だった。
やがてそこに一条の光が射した。
光に向かい移動すると、知らない町にたどり着いた。
知らないと言っても外国や異世界ではなく、似た光景を教科書に載っている写真で見たような記憶はあった。
『教科書で?』
思考の違和感に気が付くが、自分の体が動かせず傍観者としてその場を見ているしかなかった。



物置のなれの果てのような粗末な木造の建物が気にかかり、気が付くとその中に僕の意識があった。
『ひっ!』
そこには沢山の大きな犬がいる。
しかし恐怖を感じたのは一瞬で、力なく横たわる傷だらけでガリガリの犬達に哀れみを覚えるようになった。
『皆、目に力がない、あそこの犬なんて明らかに死んでいる…』
あばら屋の申し訳程度の木戸が開き、子供が1人入ってきた。
尻尾を振る元気がある犬は半分ほど、近寄る力が残されている犬はさらに少なかった。

白黒斑のひときわ大きな犬がヨロヨロと少年に近寄って頬を舐めた。
「コータ」
少年は優しく犬を撫でてやる。
犬は甘えるように鼻を鳴らしていた。
その犬の顔と伊古田の顔がだぶって見え、僕はごく自然にあの犬が伊古田だと言うことに気が付いた。
『これは伊古田の過去なの?確かにこれは言葉で伝えようが無いや
 彼が常識的なことを何も知らないのは違う時代に生きていたからなのか
 だってこの時代って、まだ戦後って感じだもの
 そもそも彼は人では無かったんだ』
異世界もののラノベも読んだことがあるけど、こんなに悲惨な設定のものは物語にはあり得なかった。

場面は変換しながら先へと続いていく。
ここの犬達が闘犬の練習用の『噛ませ犬』であること、幼い少年が貧しい中必死で犬達の世話をしていること、犬達は次々にかみ殺されていくことを知った。
助けたくても傍観者でしかない意識だけの僕には何もしてあげられなかった。
あの白黒斑の大型犬だけが何とか少年の元に留まり、それによって2人の間に強い絆が結ばれていくが、嫉妬する気にもなれないほど彼らの生活は凄惨を極めていた。

伊古田だけが薬を塗ってもらえ、餓死しないギリギリの糧を貰っていたのは少年の叔父の計らいだった。
伊古田と少年に対する憐憫からではない。
自分の所持する特別な闘犬の噛ませ犬として利用するためだ。
少年はそれに気が付かず、優しくしてくれる叔父に懐いていた。
叔父も少年には多少の愛情を感じていたのか、それは少年が学校に行っている間に起こった。


『ケン坊は学校か?今日はついにあいつを使わせて貰うぜ』
叔父は子牛程もあるのではという大きな闘犬を連れて来た。
『兄貴スゲーな、これが向かうところ敵なしの「輝龍(きりゅう)号」か』
『ああ、しかしこないだ当たった相手も凄くてな、勝てはしたんだがちょっとヤバかったのが自分でも気にくわないらしく、イライラしっぱなしなんよ
 早々に自信をとりもどしてやらんと、使い物にならなくなるわ』
『そりゃ大変じゃ、まっとれ、ほら、こっちこい』
少年の父親がコータの首に縄を巻いて無理矢理引きずってきた。
コータは闘犬の気迫に気が付いていて必死で抵抗している。
しかし抵抗空しく引きずられ、練習場へと消えていった。

『伊古田に酷いことしないで、伊古田を殺さないで』
僕の祈りが届くはずもなく、犬のうなり声、犬の悲鳴が辺りに響きわたった。
断末魔の悲鳴が響くこともなく、犬の勝利の雄叫びだけが響きわたった。

優しく弱虫な大きな犬は、最後に大好きな飼い主に会うこともなく唐突に理不尽に命を奪われた。
犬が怖くても人に対して友好的なのは、あの優しい少年が飼い主だったからだ。
あんな目にあってなお人を好いていてくれる伊古田の存在が、切なく愛しかった。


再び世界は闇に閉ざされる。
伊古田は長い間ずっとこの闇の中を彷徨(さまよ)っていたのだ。
永遠に続くかと思われた闇の中に再び光が射し込んだ。
払われた闇の先には人が立っている。
『僕だ…!』
辺りが明るくなると共に暖かな風が吹いてきた。
それで初めて自分の体が冷え切っていたことに気が付いた。
何故僕なのかはわからない。
でも、僕でなければダメなのだ。
伊古田を暖めてあげられるのは僕だけだ。
自分がこんなにも必要とされている存在なのだということに、僕の方こそ救われたような思いを感じていた。




気が付けばそこは浴室で、湯船から溢れたお湯が先ほどよりも濃い湯気を吐き出している。
僕を抱きしめながら怯えている大きな犬に
「伊古田、君を温められるのは僕だけだって知った、君が犬だって変わりなく愛してるよ」
そう告げると唇を合わせた。
伊古田は小さく頷きながら自分からも積極的に唇を合わせてきた。
シャワーの滴のように暖かな水滴が僕の顔に降り注ぐ。
薄く目を開けると、それは伊古田の涙だった。

「野坂、愛してます、今度こそ飼い主の役に立つ強い犬になります」
僕はその誓いに満足し全てを彼に委ねることにした。
僕も彼も身体は限界まで相手を求めている。
欲望が尽きるまで、僕たちはその場で何度もつながり合った。
初めての行為が浴室、だなんて今までの僕は考えたこともない大胆な行動だ。
でも、伊古田と一緒なら僕も変われるはずだと思った。

大きくて厳つい弱虫と、理屈っぽくひねくれたひがみ虫の物語はもう終わりにしよう。


これから僕たち2人には、幸せに満ちた新たな物語が始まっていくのだから。


次の章へ
前へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ