しっぽや3(ミイ)

□猫神奮闘記〈前編〉
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side<HAGURE>

『ダメ…なのに…、オレ…が…居ないと…、……が…壊れちゃう…の…
 早く…帰らないと…、ダメ…な…の…に…
 誰…か…タス…ケ…テ……』


眠っていた私の意識に、そっと触れてきた小さな気配。
その微かな場の揺らぎに、私は目を開けて耳を澄ませた。
しかし、音は聞こえない。
虫達が鳴き交わす季節はまだまだ先なのだ。
冷たい空気と障子から差し込む月明かりだけが、夜を彩っていた。
まだ深夜でシンシンと冷え込んでいる。
山の中にある三峰様のお屋敷は、町より春の気配が遠かった。

『誰かに呼ばれたような気がしたが、気のせいであったか』
もう一度眠ろうとしたが、どうにも先ほどの気配が気になって寝付けなくなってしまった。
そのうちに
「フゴッ」
「プフー、プフー」
広い寝室で雑魚寝をしているような状態のため、武衆の者達の鼾(いびき)が聞こえだしてきた。
「ヒッ、ヒイィ、キャンッ」
生前の夢を見ているのか、犬の悲鳴が混ざりだす。
私は布団からそっと抜け出すと、悲鳴を上げている陸の元に向かった。

陸はビクビクと体を震わせながら、まだ悲鳴を上げていた。
「大丈夫だ、もう終わったことなんだよ
 後悔だけを残し、時は過ぎてしまった
 同じ時は取り戻せないが、新たな時を紡ぐことが出来る
 過去ではなく明日を生きなさい」
安心させるように陸の髪を撫でやると寝息が安定してきたが、その目から涙が一筋流れていった。
「間に…合わなかった…
 俺が居れば、助けになれたのに…
 俺は…、チームのリーダー…だったのに…」
泣きながら後悔の寝言を呟く陸の髪を、彼が落ち着くまで撫で続けてやる。
いつも浮かれたハスキーであるが、心の中には悲しみと後悔の炎が燃え続けているのだ。
新たな飼い主に巡り会えるまで、その炎が消えることはない。
それは、私の胸の内にも確かに燃え続けていた。
陸に言った言葉は、自分のための言葉でもあった。

やっと落ち着いたらしい陸が規則正しい寝息を立て始めると
「オカシラ…オカシラ…
 鯛の…尾頭(おかしら)…
 独り占め…へへっ…」
海が涎を垂らして寝言を呟いていた。
『枕が汚れる!』
私は慌ててティッシュを取り、乱暴に涎を拭ってやる。
『同じ顔から出る液体であるのに、涙を汚いと思わないのは何なのだろうか…』
漠然とそんなことを考えていると、他の武衆の者達も悲鳴を上げたり布団をはねのけたりし始めていた。
『世話が焼けるな…』
心の中で苦笑して、私は彼らの世話を焼いて回る。
先ほど感じた微かな気配のことは、頭の片隅に追いやられていった。


「お疲れさま」
何とか皆の世話をやり終えて縁側に出ると、そこには三峰様がいらしゃった。
いつもの白いワンピースではなく、寝間着用の着物をお召しになっている。
「満月にはまだ早いけど、上弦は過ぎているので十分明るいわよ
 狼の血が騒ぐわね
 少し、お月見しましょう」
三峰様はマグボトルから温かなお茶を湯飲みに注いで、私に差し出してくれた。
「ありがとうございます」
私は湯飲みを受け取ると、三峰様の隣に正座する。
「カズハに教えてもらったマグボトル、細くてカサバらないから持ち運びに便利ね
 化生の飼い主から色々な事を教えてもらえるのは、とてもありがたいわ
 秩父先生も飼い主のいない化生達に『現代』を教えてくださっていた
 私も、もっときちんとご挨拶に伺えば良かったと、それが心残りなの」
三峰様は残念そうな顔で湯飲みを口にし、ポツリと呟かれた。

「万が一、がございますので三峰様が警戒しておられたのも当然だと思います
 当時はまだ私が化生しておらず、武衆も今のように組織化されておりませんでしたから」
私はそう伝えて湯飲みからお茶を一口飲んだ。
温かな液体が胃の腑(いのふ)に落ちていくとホッとした気持ちになるのは、あのお方の『コーヒータイム』を共に過ごしていた頃の名残なのであろうか。

「でも、ゲンと親しく交流することには間に合ったので、良しとしましょう
 初めて会食にお呼ばれしたときの貴方ったら
 可笑しかったわ
 あんなに聡い人間が居るなんて、驚いたわねぇ」
当時を思い出されたのか、三峰様は私の顔を見てクスクスと笑い出した。
「直ぐに替え玉だと気付いたゲンの洞察力には、脱帽するばかりでした」
私は決まり悪く頭をかくしかなかった。
「貴方はあの時に松阪牛の味を覚えたのだから、ゲンに感謝なさい
 狼犬とはいえ、生前はあんなに良いお肉を食べてなかったのね」
「あのお方の元に居たのは、私1頭ではありませんでしたので
 後から松阪牛の値段を知って、肝が冷えました」
私は益々恐縮してしまう。
「貴方、野生の血が濃すぎて人間に対する警戒心がなかなか取れないから、少し心配だったのよ
 何のために化生したのかしらって思ってたわ
 今はまた、別の意味でそう思ってるけど」
三峰様は困ったようにため息をつかれたが、その顔は優しい微笑みを湛(たた)えていた。
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