しっぽや1(ワン)

□上弦の月〈2〉
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『ジョン』
闇の中で、あのお方が優しく俺を呼ぶ。
『ジョン…』
その声がどんどん遠ざかっていく。
『ジョ…ン…』
闇が深すぎて、どこにあのお方が居るのかわからなくなっていく。
『…ジョ…ン……き…を…よろ……く…頼む…な……守っ…て……』
途切れ途切れに、闇の中からあのお方の声が聞こえた気がした。
『待ってください!待って!俺を置いていかないで!
 俺も貴方のお側に行きます!
 もう、満月を恋いこがれるだけの上弦では寂しすぎて嫌なんです』
泣きながら手を伸ばしても、気配すら感じられない。
『貴方のお役に立ちたくてこの姿になったのに、間に合わないなんて』
自分の存在意義が全て無くなっていくのを感じ、この世から消滅してしまいたいと願った。

「駄目です!」
そんな俺の耳に、力強い言葉が響く。
「貴方が化生出来たことには、意味があるはずです
 それを見極めずに消滅してはいけません」
気が付くと、親鼻が俺を抱きしめていてくれた。
「もう、あのお方は居ないんだ…」
泣きながら呟く俺に
「秩父先生に正体を悟られ、せっかく飼っていただいたのに捨てられるかもと感じたとき、私も消滅しかけました
 けれども、秩父先生は私を迎えに来てくれた
 貴方を迎えに来てくれる方が、きっと居るはずです」
親鼻はきっぱりと宣言する。
俺の手を握ってくれていた黒谷も、強く頷いている。
「また、出会えるかもしれない
 ジョン、待っていよう
 飼い主を待つのは、犬の勤めだよ」
仲間達の言葉に、俺の心が落ち着いていく。

「あ、あの…?」
光男氏がオロオロしながら俺を見つめていた。
『あのお方の忘れ形見に、みっともない姿は見せられない』
そう気が付いた俺は
「取り乱してしまってすいません」
涙を拭いながら、何とかそう言った。
「この人の親が、一番岩さんにお世話になったんですよ
 いつかご恩返しをしたいと、常々言っておりましたから」
秩父先生が慌てて場を取りなしてくれる。
「そうでしたか、義理堅い方だ」
光男氏は俺にも深々と頭を下げてくれた。

「義理堅いのは、貴方も一緒ですよ、光男さん
 岩さんの言葉に従って、わざわざ訪ねてきてくれたのだから」
秩父先生の言葉に、光男氏は照れた顔をみせた。
「いや、わざわざってほどでもないんです
 実は、こちらの方に引っ越してきましてね
 営業と挨拶もかねて訪ねてみたんですが、まさか親父の知り合いがこんなにいる町だったとは
 縁、ってやつですかね」
光男氏はそう言って頭をかいた。
「隣町で、クリーニング屋を営業してるんです
 背広なんて洗いはしても着る事なんて滅多にないし、お医者先生の家に行くってんで、今日は随分緊張しましたよ
 役者みたいな格好いい若者が集まってて、場違いなとこに来ちまったとハラハラした」
光男氏は深く息を吐いてニッコリと笑った。
その笑顔は、あのお方が俺に向けてくれたものと同じで、懐かしさにまた涙が溢れそうになった。

「あのお方…いえ、岩さんはいつ頃ご家族の所にお戻りになったのですか?」
俺が死んだ後のあのお方のことを、知りたかった。
皆、黙って俺の言葉に耳を傾けている。
「あれは、万博の前くらいだったかな
 復員してから長い間行方不明で連絡一つよこさなかった親父が、フラッと帰ってきてね
 子供の頃は親父が居なくて寂しい思いもしたし、若い頃は恨んだこともあったけど
 年取って、小さくショボクレた爺さんになった親父を見たら、何にも言えなくなっちまった
 お袋はいつか親父が帰ってきてくれると信じて、女手一つで俺を育てながら家を守ってたんだ
 親父が帰ってきた頃には身体悪くして入退院繰り返してたけど、最後は親父に看取られて穏やかな顔で旅立ったよ」
その言葉を聞いて
『あのお方は、大事な方の最後に間に合ったのだ』
と、俺は安堵の息を吐いた。

「数年後、後を追うように親父も旅立った
 あんな戦争がなけりゃ、俺達家族はずっと一緒にいられたのに、と思うとやりきれなかったね」
光男氏の言葉に、黒谷が辛そうな顔を見せる。
しかし、その戦争があったおかげで俺はあのお方に飼っていただく機会を得たと思うと、心は複雑だった。

「そうだ、これ、親父が大事にしてたお守り
 秩父先生に貰って頂いた方が良いかと思って、持ってきてみたんですが」
光男氏が差し出したくたびれたお守りを、秩父先生が受け取った。
「ご家族が持っていた方が御利益ありそうだけど…
 ?いやにふわふわしてるね、これ」
秩父先生がお守りを摘んで、不思議そうな顔をする。
「そうなんですよ、でも、開けてみるのも罰当たりな気がして
 秩父先生なら、中身が何か知ってるかなと」
光男氏は困惑した顔になった。

俺は、そのお守りに見覚えがあった。
あのお方が肌身離さず持ち歩いていたものだ。
そこには、もしもの時の蓄えで千円札が10枚入ってた事を俺は知っていた。
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