内実コンブリオ

□第3章*第3話
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『そう』



自分に向けられた声はそれが最後だった。

自分はただ角野先輩に迷惑をかけたくない。

それだけを思っただけだったのに、逆に先輩の機嫌を損ねることを言ってしまったらしい。

同じ職場であるだけにとても気まずい。

当たり前だがお互い、他の人とは今まで通り何も変わらず接することが出来ている。

しかし、自分と先輩が会話する時はお互いに、他人行儀の様になってしまう。

会話の内容は仕事の用件のみ。

姿を見る度すれ違う度に、謝れば少しは受け入れてくれるのだろうか、とも思った。

何度も何度も先輩に声をかけようとした。

そんな自分にきっと気付いてはいるはず。

でもあえて反応をしない。

それどころか指示以外、言葉を交わしてくれない。

一体何が先輩のカンに障ったのかわからないけれど、一言でそこまでしてくれなくったっていいじゃない。

こうなってしまったわけもわからず、柄にもなく苛立ちに似た感情が自分の平常心にちょっかいをかける。



「名簿、仕分けるのよろしく」



この人はなんてタイミングで現れるの。

しかも話しかけてくるなんて。



「よろしく」



しばらく動けずにいた自分に向かって、圧力をかける様に言う。

その場の空気が重さを変えたのを感じた。



「聞こえてへんの?」



ハッと我にかえったと思えば、角野先輩の顔が目に入る。

その表情は、無表情で何も読み取れない。

人間というのは、感情が顔に映らない時ほど恐いものはない。

普段ニコニコしている人だったからに尚更だ。

でも、恐怖に押し負かされている場合じゃない。

気力を振り絞って、空気に押さえ付けられた重い口を開く。



「あ、あの…角野せ―」



呼び止めて謝ろうと思った。

しかし、自分が声を発した瞬間、それを合図にしたかの様に背中を見せつけて去っていった。

そんな…そんな…

そんな子どもじみたことしやんでもいいじゃないですか!先輩!!

何よ。

自分って先輩がそんな風になる程のことを言ったの?

自分なんて言ったっけ。



『そう』



角野先輩のあの声のせいで、あの時の会話が全部消えた。

…駄目だ。

思い出せない。

さっきまで内心は強気でいたのに。

駄目だ。

あの人に対して悪いことを言うと罪悪感が残る。

やっぱりあの人は根っからいい人だから。

罪悪感で視界がぼやけだす。

あの人がいつも自分に見せてくれる笑顔が見られないのは、辛くて仕様がない。
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