羊かぶり☆ベイベー
□One sheep
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陽もまだ沈み切らない普段の帰路を、自身の通勤車で行く。
そのハンドルを握る私の頬は、涙に濡れていた。
車は帰路を、問題なく進んでいた。
しかし、気分に問題大ありだ。
このぐちゃぐちゃの顔のままで実家には、とても帰れない。
父親、母親には、とてもじゃないが見せられない。
親に、こんなみっともない顔面を晒すくらいなら。
そんなことするくらいなら、いっそのこと──
ハンドルを、時計回りにきる。
いつもの道から逸れて、普段の私ならしようとも思わないことを、この際してしまおう。
今までも何回か、思い至ったことはある。
だけど、どうしても勇気が出なかった。
最後まで、やり通す勇気は無かった。
だけど、今なら、出来る気がする。
いつもより20分くらい余分に、車を走らせた。
アスファルトに白線が引かれた、至って普通の駐車スペースに到着する。
これからしようと考えていることに、怖じ気付いているからか、いつもよりも私の気持ちが不安定になっているようだ。
白線、真っ直ぐに上手く駐車することが出来ない。
今夜はここに、車は置いていくつもりだから、しっかり真っ直ぐに停めないと。
私の可笑しな色をした愛車が、他の車に当てられでもしたら、大変だから。
何度か切り返して、ようやく納得した私は車から降りる。
そして、駐車場から10分程の道を歩いた。
何てことはない、舗装された道路をどんどん行く。
目的の場所まで来たら、小ぢんまりとした建物の入口の扉を開いた。
「いらっしゃいませ。こんばんは。カウンター席へどうぞ」
いまいち、やる気の無さげな男性が席へ通してくれる。
彼が、この小さな飲み屋さんで働く、たった一人の店長だ。
やはり今日もお客さんは、誰も居ない。
この緩く、着飾らない雰囲気が気に入っている。
無論、私の行き付けだ。
でも、一人で来たことは、今までに一度もない。
今の私の姿を他に晒すくらいなら、こんな夜は、いっそのこと自棄になって、一人酒してしまった方がいい。
これを、一度はしてみたかった。
「自棄」は余計だけど、一人で思い切り呑んでみたかった。
ゆっくりと椅子に腰をかける。
店長は私の顔色を窺うようにして、カウンターを挟んだ向こう側から、私を覗き込んだ。
そして、私が目を腫らしていることに気づいたからか、こちらにちゃんと向き合い、慎重に口を開いてくれた。
「今日は、一人で?」
「はい」
「珍しい。いつもはお友達と来てくれるのに、ね」
「まぁ……私にもいろいろあって」
「そう。いろいろ、ね」
気を遣ってくれているからか、店長の口調が、いつもよりぎこちない。
「今日も、おまかせで?」
私はそれに、頷いて答える。
店長の手慣れた手つきに、カウンター越しに見惚れていた。
この怠惰そうな男性が、お店を一人で立ち上げて、一人で切り盛りしているというのだから、世の中不思議なものだ。
しかし、この怠惰そうな男性は、気配りは小まめである。
だから、人は見た目ではない。
そう信じてみたかったのだが。
そう信じると決めたのに。
駄目だ。
ついさっきの出来事を思い出したら、また涙が込み上げてきた。
しかし、理性がしっかりしているために、まだ泣きじゃくる気にはなれない。
店長にも覚られまいと必死で、嗚咽を押し殺した。
何気無く、店長と目が合う。
私の隠そうとした気持ちも、容易に汲み取る店長は、やはり怠惰な見かけによらない。
そして、感心はするが、羞恥心が勝る。
そんな複雑な想いが渦巻く私に、店長は無表情のままで言った。
「泣きたいときは、ちゃんと泣かないと。病気になるから、さ」
「ん……」
たった今は、店長の本当はちょっとしたつもりの一言が、私にはひどく響く。
無言で私の前に差し出されたカクテルはオレンジ色など、暖色のグラデーションだった。
綺麗だ、ただそう思って、しばらく見つめていた。
それから微動だにしない私の正面に、店長がやって来てくれた。
そして、出されたカクテルを指差す。
「恵みの太陽」
「え……?」
「それ。今日のおまかせカクテル。『恵みの太陽』です」
そう言ったとき、ほぼ無表情だった店長が、初めて控えめに微笑んだ。
「お客さんがいつまでも辛そうにされているので、少しでも早く晴れ間が覗くように……作らせていただきました」
いつもに比べ、突然に饒舌になった店長に驚かされ一瞬、涙もおさまる。
「あ……」
「よかったら、何があったのかくらい話してみてください。溜め込むのはあまり良くな──
扉が勢いよく開けられた音が、店長のせっかくの台詞を遮った。