お茶にしましょうか
□Scene 12
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「江波くんではありませんか。珍しいですね、こちらの棟にいらっしゃるなんて!」
「こ…こんにちは。」
俺の心配していた深海魚の君は、見るからに元気そうであった。
いつもと変わらぬ様子であり、優しげな微笑みで、俺を見上げてくる。
これには、拍子抜けしてしまったではないか。
隠しきれない程、何かに落ち込んでいたはずの彼女は、何処へ行ってしまったのやら、そう思える程、彼女はもう元気そうであった。
深海魚の君、彼女はいつでも強い精神を持ち合わせている。
俺は彼女を、本当に尊敬しているのだ。
俺は、思い出せない彼女の名を、ますます知りたくなった。
「あの、すみません。今、時間はありますか?」
「申し訳ありません。理科室へ移動しなければならないので、あまりあるとは言えません。
何かご用件がございましたか?」
「いや、あの、大丈夫です。すみません。」
少し落胆して、先程までの勢いが一気に衰える。
そうか、移動教室か。
それでは、仕様がない。
彼女が胸に抱えていた教科書に、ふと目をやった。
その教科書の下の際の方に、名が書かれていた。
彼女の名が書かれている。
こればかりは、幸運だった。
俺は、せめて、と最後に台詞を置いていくことにした。
「あの、何か悩み事はとかあれば、聞くんで…佐々木さん。」
「…え」
「え?」
話の締めにと、なるべく格好のつく様な台詞を言ったつもりだったのだが、相手の反応が何やらおかしい。
「あの、佐々木さん?」
再び、彼女の名を呼んでみた。
すると、彼女は俯き、肩を震わせている。
彼女の心情を察するにも、わけがわからず、俺は慌てふためいていた。
「ち、違います…」
今にも消え入ってしまいそうな、か細く、小さな声が聞こえてきた。
「違います。私、佐々木ではありません…」
「え…でも、教科書に…」
「この教科書は、隣の組の子からお借りした物です。」
「なっ…!」
なんとも紛らわしいことだ。
俺は知らず知らずのうちに、人を間違えた名で、呼び続けてしまっていた。
何とも失礼なことを、平気な面でしてしまっていた。
すると、深海魚の君は、先程まで俯いていた顔を上げ、瞳を潤ませながら、俺を見つめる。
「江波くんは…私の名を覚えていては、くださらなかったのですね。」
その弱々しい一言に、俺の胸は傷んだ。
とても息苦しい。
ここは山頂付近か、と思う程に空気が薄い。
ただその場に留まることが、辛かった。
しかし、これは自業自得だ。
自らで回避する他ない。
ああ、どうしようか。
動悸が激しい。
拳を太股の横できつく握り、意を決する。
「あの、もう一度、もう一度だけ…名前を教えてもらえませんか。」
俺はそのまま、頭を下げた。
今は、周りの状況は何も見えていない。
心身共に緊張していた。
「…わかりました。」
彼女の声がようやく聞こえ、恐る恐る頭を上げ、様子を窺う。
「本当に…もう一度だけ、ですよ。私は…萩原、と申します。」
次は忘れないでくださいね、とまた彼女は優しく笑う。
ああ、忘れるものか。
忘れまいと、俺はその名を大事に口にした。
「萩原さん。
…君の悩みを、俺に聞かせてください。」
俺らしくもない気取った台詞に、彼女は照れ臭そうにしていた。
俺もそれにつられ、徐々に恥ずかしくなった。
「それでしたら、今日の放課後、江波くんはご都合よろしいですか?」
「は…よ、よろしいです!」
「ふふっ。よろしければ、お茶しませんか。」
予知すらもしていなかった誘いを深海魚の君から受け、驚きつつも内心は舞い上がっていた。
たった今、幸福なのか、何なのかはわからないが、俺の気持ちは軽々と浮き漂っている。
今日ばかりは、するべきことも怠けてしまおう。
Scene 12 今一歩