お茶にしましょうか

□Scene 12
4ページ/4ページ




「江波くんではありませんか。珍しいですね、こちらの棟にいらっしゃるなんて!」

「こ…こんにちは。」



俺の心配していた深海魚の君は、見るからに元気そうであった。

いつもと変わらぬ様子であり、優しげな微笑みで、俺を見上げてくる。

これには、拍子抜けしてしまったではないか。

隠しきれない程、何かに落ち込んでいたはずの彼女は、何処へ行ってしまったのやら、そう思える程、彼女はもう元気そうであった。

深海魚の君、彼女はいつでも強い精神を持ち合わせている。

俺は彼女を、本当に尊敬しているのだ。

俺は、思い出せない彼女の名を、ますます知りたくなった。



「あの、すみません。今、時間はありますか?」

「申し訳ありません。理科室へ移動しなければならないので、あまりあるとは言えません。
何かご用件がございましたか?」

「いや、あの、大丈夫です。すみません。」



少し落胆して、先程までの勢いが一気に衰える。

そうか、移動教室か。

それでは、仕様がない。

彼女が胸に抱えていた教科書に、ふと目をやった。

その教科書の下の際の方に、名が書かれていた。

彼女の名が書かれている。

こればかりは、幸運だった。

俺は、せめて、と最後に台詞を置いていくことにした。



「あの、何か悩み事はとかあれば、聞くんで…佐々木さん。」

「…え」

「え?」



話の締めにと、なるべく格好のつく様な台詞を言ったつもりだったのだが、相手の反応が何やらおかしい。



「あの、佐々木さん?」



再び、彼女の名を呼んでみた。

すると、彼女は俯き、肩を震わせている。

彼女の心情を察するにも、わけがわからず、俺は慌てふためいていた。



「ち、違います…」



今にも消え入ってしまいそうな、か細く、小さな声が聞こえてきた。



「違います。私、佐々木ではありません…」

「え…でも、教科書に…」

「この教科書は、隣の組の子からお借りした物です。」

「なっ…!」



なんとも紛らわしいことだ。

俺は知らず知らずのうちに、人を間違えた名で、呼び続けてしまっていた。

何とも失礼なことを、平気な面でしてしまっていた。

すると、深海魚の君は、先程まで俯いていた顔を上げ、瞳を潤ませながら、俺を見つめる。



「江波くんは…私の名を覚えていては、くださらなかったのですね。」



その弱々しい一言に、俺の胸は傷んだ。

とても息苦しい。

ここは山頂付近か、と思う程に空気が薄い。

ただその場に留まることが、辛かった。

しかし、これは自業自得だ。

自らで回避する他ない。

ああ、どうしようか。

動悸が激しい。

拳を太股の横できつく握り、意を決する。



「あの、もう一度、もう一度だけ…名前を教えてもらえませんか。」



俺はそのまま、頭を下げた。

今は、周りの状況は何も見えていない。

心身共に緊張していた。



「…わかりました。」



彼女の声がようやく聞こえ、恐る恐る頭を上げ、様子を窺う。



「本当に…もう一度だけ、ですよ。私は…萩原、と申します。」



次は忘れないでくださいね、とまた彼女は優しく笑う。

ああ、忘れるものか。

忘れまいと、俺はその名を大事に口にした。



「萩原さん。
…君の悩みを、俺に聞かせてください。」



俺らしくもない気取った台詞に、彼女は照れ臭そうにしていた。

俺もそれにつられ、徐々に恥ずかしくなった。



「それでしたら、今日の放課後、江波くんはご都合よろしいですか?」

「は…よ、よろしいです!」

「ふふっ。よろしければ、お茶しませんか。」



予知すらもしていなかった誘いを深海魚の君から受け、驚きつつも内心は舞い上がっていた。

たった今、幸福なのか、何なのかはわからないが、俺の気持ちは軽々と浮き漂っている。

今日ばかりは、するべきことも怠けてしまおう。







Scene 12 今一歩
次の章へ
前へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ