BL

□五月
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○3 中編





 とりあえず倒れたまま放っておくのもなんだか哀れまれたので――全ての元凶は俺の兄だということもあるし――、俺は右から明喜、大株、大樹の順で、三人を綺麗に並べて寝かせてやった。


「川の字だね」
「そう――……いや、違うな」
「え?」


 彼等に掛布をかけてやっている兄の言葉に同意しかけた俺は、しかし自らそれを否定した。……正確には、違う。これは川の字ではない。これを川の字と呼称するには位置取りがあまりにも甘すぎるのだ。
 俺は明喜を横抱きにして退かした。何故か兄が物欲しそうな顔でやたらと俺と視線を合わせようとしてくるがどうでもいい。兄を無視し、大樹を足蹴にして明喜がいた場所にやり位置調整をはかる。と、そのとき明喜がうっすらと繊細そうな目蓋をあげた。射し込む日に眩しげにしている。


「おはよう、明喜」
「……おはよう……?」
「どうも、挨拶が遅れたけど、お邪魔してるよ」
「え……? あ……、はい……」


 明喜は眠たそうにぼんやりとした顔でゆっくりと瞬きを繰り返していたが、不意に思い出したように言った。


「あ……、朝御飯……あるから……」
「ああ、ありがとう」
「おにぎり……、台所に……」


 その言葉を聞いて俺は明喜をふたりの間におさめてから台所へ向かった。言う通り、キッチン台の上にはラップがかけられ、大皿に並ぶ五つの大きなおにぎりがあった。ラップの上からおにぎりひとつひとつに付箋が貼られていて、おにぎりの中身の具が書き出されている。ひとつ海苔も何もないシンプルなおにぎりがあったが、もしかしたら前に俺が塩むすびが好きだと言ったのを覚えていたのかもしれない。明喜のこういう様々な面において細かなところまで気のつく性格は本当に尊敬できる。
 関心しつつラップを開封すると、それを見た兄さんが俺に擦り寄ってきた。邪魔だ。


「笑輔さんのぶんはないのかなー? 朝御飯も食べないで来たからお腹がすいちゃって」
「嫌がらせに心血を注ぎすぎじゃないのか」


 「嫌がらせなんてそんな! 僕は可愛いしょーちゃんに会いたかっただけなんだよ?」等と寝言をほざく兄の口にカカオのおにぎりをぶち込む。……カカオ?
 むぐむぐとおにぎりを咀嚼し始めた兄を横目に付箋を確認する。“具なし”、“鮭”、“味噌”、“カカオ”、“いちご”。後半ふたつがなんか可笑しい。
 前半みっつの読みやすい小さな字は見慣れた明喜の文字だ。“カカオ”は大株、“いちご”は大樹のものだろうか。
 思案する背後で悲鳴が上がる。


「うわっ、苦ッ!? なにこれ!!」


 どうやらカカオに行き着いたらしい。俺はごみ箱の中のカカオ98%のチョコレートのパッケージを視認してから麦茶を兄に出してやった。
 大方、カカオ量の多いチョコレートを物珍しさから買ってみたものの食べきれずおにぎりに混入させたのだろう。なんて奴だ。
 苺に関しては何故おにぎりに入れようと思ったかわからない。苺なんぞ甘くなくとも練乳やら何やらをかければ解決するだろうに。明喜に頼めばジャムにだってしてくれたはずだ。
 とにかく正気の沙汰でなかったのは確かだろう。こんなの食べ物に対する冒涜だ。
 しかし、我が家には父母によって定められた“どんな食べ物でも毒物でない限りはひとかけらも残すな”という血の掟がある。幼き頃よりそうしつけられた俺たちはその家訓に逆らうという発想自体がないのだ。精神的には毒物であるが身体的には恐らく無問題のカカオ入りおにぎりも、ひとたび口をつけたからには食さねばならない。
 俺はこんなものを食いたくはないから“いちご”のおにぎりも兄にくれてやろう。
 ところで、俺の姉は精神的に毒物で身体的には無問題のブツを生成する達人で、調理実習があると持ち帰られてくるカオス・フードの扱いに一家で困り果てていたものだが、ある時からそういったものを姉が持ち帰ってこなくなった。その代わりに調理実習があったあとは叔父が暫く行方を眩ましていたのだが、まさかな。
 兄が最後のひとくちを口に収めて麦茶を一気にごくごくと飲み干すのを待って、またひとつおにぎりを彼の口許まで持っていく。


「ふたつで足りるよな?」
「不吉な付箋が見えるけど可愛い弟くんからの“あ〜ん”には敵わないなあ……」


 何やら兄は渇いた笑みを漏らしている。構わずおにぎりをその口に突っ込んで、俺は塩むすびを手に取ってかぶりついた。美味い。


「――――え、ちょっと待ってさっきの誰!?」


 ようやっと覚醒したらしい明喜の悲鳴じみた叫び声。次いで大株と大樹が発したと思われる本物の悲鳴が聞こえた。何をしているんだ、あいつらは。
 「うう、まずいよう、まずいよう。苺の果汁が染みてるよう」兄はあまりのおにぎりの不味さにあの騒ぎを気にしていられる余裕はなさそうだ。
 後ろを振り返り、リビングを覗き込む。腹を押さえて蹲るふたりとそのふたりに必死に謝る明喜が見えた。慌てて起き上がろうと手をついた先がふたりの腹だったのだろうなと推測してみる。多分あたりだ。


「おい、大丈夫か」


 首を伸ばして声をかけると、明喜はびくっとして勢いよく俺のほうを向いた。顔色が少し悪い。


「あっ、笑悟くん! その人だれ!?」
「兄だ」
「え、お、お兄さん!?」


 明喜が目を剥いた。段々痛みが治まってきたらしい大株がちらりと俺を見る。大樹はまだ蹲ったまま微動だにしなくなってしまったのだが、もしかして奴は寝ているんじゃなかろうか。
 不審な男が実は級友の兄だと知った明喜はあからさまに狼狽えているようで、おどおどとしている。


「そんな……、侵入するなりいきなり襲い掛かってきたから、てっきり僕は新手のヒットマンだとばかり……」


 聞けば聞くほど兄の屑さ加減が浮き彫りなっていってただただ辛い。
 だいたい、兄は昔から俺が気を使ってほしいこと――犬太郎の愛らしさに兄なんぞが敵うわけがないとか、――にはてんで無頓着なくせして、変なところで神経質なのだ。
 「うええ……、気持ち悪い……」そんな兄は俺たちのことなど一切気にせず勝手に冷蔵庫を開けている。茶をおかわりしようと言うのだろう。


「あ、しょーちゃん、おにぎり食べるんでしょ。麦茶、飲むかい? コップはこの犬のやつだよね」
「飲む。……それが俺のコップだとよくわかったな」
「わかりやすいよ。それにこれ修学旅行で兄さんが作って持って帰ってきたやつでしょ。覚えてるよ。これ持ってきたんだ」


 兄がまじまじと見つめるコップは長兄である笑太兄さんが俺のためにと犬太郎に似せて作ってくれたコップだ。全く以てオリジナルの愛らしさに通ずるところはないが、入寮するために荷物を整理していたときに発掘し、なんとなく此方まで持ってきてしまった。
 麦茶を持った兄の後に続き、俺も残りふたつのおにぎりが乗った皿を手にリビングのほうへ行く。
 リビングには既に起き上がった三人がぎゅうぎゅう詰めになってソファに座っている。俺と兄はその向かい側に腰かけた。兄がやたらと密着してくるのはどういった意図からであろうか。


「えっと、笑悟くんのお兄さん……なんですね」


 些か緊張したような面持ちで明喜が切り出す。その両隣でぼへえっとした顔をしている馬鹿ふたりは何を考えているのか。多分何も考えていないんだろうな。


「うん、そうだよ。笑輔って言うんだ。よろしくね」


 兄の柔和な笑みにいくらか和んだらしい。明喜は小さく息を吐いて表情を柔らかにした。


「はじめまして、笑悟くんと同室の柳瀬明喜です。此方こそよろしくお願いします」
「……で、そっちのふたりは年長者に先に挨拶させた挙げ句に返事もなしなんだ? 間抜けな面した奴は頭の中身までお粗末で嫌になっちゃうね」


 明喜は穏やかな表情のまま首を傾げた。俺にとっては最早見慣れた光景であるので特に何も言わずにおにぎりを頬張る。
 兄は母譲りの優しげな顔と優しげな声と優しげな所作でとんでもなく意地の悪いことを言うので、言われた側からすると咄嗟にどんな言葉を投げ付けられたのか把握できないのだそうだ。
 大樹はぽかんとしているが、大株は呆気に取られた後その意味を理解したようでむっとした顔をしていた。


「不法侵入やらかすような奴にそんなお説教かまされたくねーよ」


 果てしなく正論だ。兄が少し苛立ったような顔をする。
 ふたりの無言の睨み合いを見て、大樹がぽつりと溢した。


「……お兄さん、強烈だな」


 「笑悟みたいに」と続けようとしていたのだろうが、その言葉は半ばで他ならぬ兄によって止められた。大樹の口を片手で潰す兄の目は据わっている。


「え? なに? 誰がいつお前の“お義兄さん”になったわけ? あんまり調子乗ったこと言ってるとはっ倒すよ」
「ん゙ん゙ん゙ん゙ッ!!」


 大樹は涙目だ。明喜と大株はドン引きしている。兄は昔から家族への愛が深すぎるのだ。正直、俺でも気持ち悪いと思う。
 犬太郎に対する俺の気持ちはこれとは違う。犬太郎は俺の心の友且つ心の恋人なので俺の彼への愛情には何ひとつとして可笑しなところはない。


「おい、やめろ、通報するぞ」


 風紀委員に、だが。彼らは寮内に万が一不審者が侵入した場合の対処も任されているという話なので、通報すれば恐らく来てくれるだろう。その手引きをしたとして俺までもがしょっぴかれそうな気もするが、まあ、そのときはそのときだ。
 兄が渋々手を離したその隙を見て、その手を俺の手と繋ぐ。きょとんとして俺を見る兄の顔がみるみるうちに赤く染まっていくのはアニメーションを見ているようで面白かった。


「……笑悟くん、家族に対してもたらしなんだね……」
「なんの話だ」


 そう言う明喜を見るも「ううん、別に」と答える気はなさそうだ。大樹はなんだか怯えきってしまっているし、大株は物凄い目でずっと兄を睨んでいる。
 最後に兄を見る。兄は頬を赤らめたまま俯いたきり黙り込んでいる。


「兄さん?」


 顔を覗き込むも逸らされる。「な、なんでもないよ……」と消え入りそうなほどか細い声が聞こえた。
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