BL
□五月
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○3 前編
平日の休みというものはどうしてこんなにも気分が良いものなのだろう。しかも連休。これ以上の至福はない。
寝間着姿のままごろんごろんとベッドを転がり回り、転げ落ちたところで俺はむくりと起き上った。壁にかかった電波時計によると、時刻は八時半。誰からも起こされなかったわりには早い時間に起きられたと思う。
珍しくすっきりした頭が心地いい。カーテンを勢いよく開け――何やら“びき”とか不穏な音がした気がした――窓を開けて空気を入れ替える。
さて、何をしよう。
「……とりあえず着替えるか」
クローゼットの中から適当に衣服を引っ張り出す。何故か中学時代のジャージが出てきた。どうして俺はこんなものを荷物に詰めたのだろう。
まあ、公の場に出るわけでもなし、これでも良いかとジャージに着替える。物凄く運動がしたくなる服装だ。
運動と言えば、去年までならばこんな日は朝から犬太郎と愛を語らいながら近所を三時間ほど練り歩いていたものだが、此処に犬太郎はいない。ああ、なんだか物凄く鬱々とした気分になってきた。死にたい。
これはいけないと俺はダンボールのままの荷物を取り出した。中には犬太郎がよく好んで着用していた犬用パーカー。犬太郎には悪いが、ついつい黙って持ち出してきてしまったものだ。
正直俺より犬太郎のほうが洋服のセンスがある気がしないでもない。さすがは俺の犬太郎だ。何処かしらに応募すればすぐにでもモデルデビューできるんじゃなかろうか。
だが可愛い犬太郎を何処の馬の骨とも知れぬ輩の衆目に晒すことはどうにも我慢がならないのでそんな日は永遠に来ないだろう。犬太郎は俺だけのものだ。
取り出したパーカーをぎゅっと抱き締めて息を吸い込む。犬太郎の良い香りがする。余計に犬太郎が恋しくなってしまった。
どうしよう。今までかつてないほどのホームシックにかかっている。小学生のときの修学旅行でも此処まで切ない気持ちになったことはないぞ。
ウォー○マンに溜め込んだ犬太郎の肉声でも聞いて横になっていれば犬太郎の夢が見られるだろうか。それはそれで物凄く寂しくなりそうだ。
どうしようかと悶々としていると、何者かに名前を呼ばれたように思って、俺は目を開けた。
……紺色のジーンズに包まれた足が見える。まさか、この部屋は事故物件だったとでもいうのか。幽霊を怖がる長兄にさんざ呆れていたが、よもや俺自身が怪奇を目にしようとは。写真を撮ってメールで送りつけたら兄はショック死してしまうんではなかろうか。
携帯電話を探していると、幽霊は「探し物はこれかな?」とまさしく俺の“探し物”を差し出した。幽霊のくせして、なんと気の良い奴なのだろう。死んでしまったのが酷く悔やまれる。
「――何考えてるかはなんとなくわかるけどさ、いくらなんでもそりゃ薄情ってもんじゃあないかい」
「はあ?」
やはり幽霊か。きっと死んでしまったときのまま記憶が止まってしまっているのだ。とりあえず携帯電話のカメラ機能を起動させ、構えつつ幽霊を見た。
思わず瞬き。そして目を擦る。幽霊は消えない。
「そんなに僕を写真に収めたいのかい、しょーちゃん」
赤い唇から吐き出される軽薄な響きの言葉。すらりとした長身を折り曲げて、彼は座り込んだ俺を見下ろしていた。
小首を傾げた美しい青年を、俺はよく知っている。だが、何故だ。あんなに元気で、病気なんて小さいころにした水疱瘡くらいだったろうに。
カメラ機能を終了させ、電話で姉を呼び出す。『もしもし?』ワンコールもしないですぐに姉が出る。
『しょうくんが私に自分から電話をくれるなんて珍しいね!』
何故だか声色が喜色に溢れている。誰だ電話を寄越す寄越さないとか、まず言うべき言葉はそれではないだろう。
まさか、俺たち家族が十数年と培ってきた愛情は、全て嘘っぱちだったとでも言うのか。目頭が熱くなるのを感じながら、俺は彼女に怒声を浴びせた。
『急にどうし――』
「どうして身内が死んだというのに俺にはなんの連絡もないんだッ!!!!」
一拍間が空く。
『……え? 死……、え? なんの話?』
「笑輔だ! 笑輔兄さんはいつ死んだんだ! 事故か!?」
「ねえ、やめて。やめて」
『はあっ!? 笑輔なんで其処にいるわけ!? 行くんなら私も誘えって言ったでしょう!? ずるい! ずるい!!』
「はいはい、姉さんうるさい。ちょっと電話切るよ」
笑輔兄さんは俺の手から強引に携帯電話を取り上げて通話を終了させてしまった。ポルターガイストだ!!
この世に未練があるのか、成仏したくないからといっていつまでも女々しく現世にしがみついているものではない。
俺はちょうど所持していた塩を取り出し、兄さんに向かって投げつけた。そして気付く。――これはごま塩じゃないか!!
白と黒のコントラストが食欲を誘う香ばしいごま塩が兄さんに降りかかる。おかしい、成仏しない。「ちょっ……いい加減にしないとさすがにぶっとばすよ!?」幽霊が何か喚いている。
しかし、どうしたものか。俺は生憎寺生まれでもイニシャルがTだったりもしないので幽霊の成仏のさせ方など塩を撒くぐらいしか思いつかない。
……いや、もしかして、その前提自体が間違っているのではないか? 俺はいるはずのない兄が突如として目の前に現れたことでこれは幽霊なのだと早とちりしてしまったのではないか?
人間の機能は意外と信用できるものではない。これはきっと、俺のホームシックによる精神の揺らぎが生み出した幻覚なのだ。
「……――――どうせ幻覚を見るなら犬太郎のほうが良かった……!!」
「相変わらず的確に僕の心を傷つけるねえ、しょーちゃんは」
俺の、俺の犬太郎への愛はこんな程度のものだったのか……!? 犬太郎ではなく、思わず兄なんぞを幻視してしまうほど薄っぺらいものだったとでも言うのか……!
床を殴りつけ深く嘆き悲しんでいると、幻覚は俺の両頬を摘み上げて左右に引っ張った。おかしい。幻覚が俺に物理的攻撃を加えてくる。
穏やかそうな黒い瞳は柔らかく細められている。子供の頃から女の子のようだと褒めそやされたその美しさは、成長した今でも面影を失ってはいない。
「……本物の兄さんか?」
「そうだよ」
「まっさか〜」
「どうしてそう頑なに僕を幻覚にしたがるんだい」
「寂しいなあ、僕はしょーちゃんにずっと会いたくって仕方がなかったのに、しょーちゃんは犬太郎のことしか心にないなんて」幻覚が何やらほざいている。
どうやら俺の今の精神状態は大変芳しくない様子らしい。幻覚と自分自身が認めているのにまだそれが消えないだなんて。
幻覚が俺に攻撃を加えられるならば、俺からも攻撃できるだろう。とりあえず部屋にあった掃除機の柄の部分を取り外して殴りかかった。受け止められた。なんだと。
「いつから僕のしょーちゃんはそんな物騒な子になっちゃったんだ。ご近所のあんぽんたんとゴリラ娘とカタコト野郎のせいかな?」
「俺は犬太郎のものだ!!」
「兄さんと犬太郎への愛の大きさに差がありすぎて笑輔さんは泣いちゃいそうだよ」
兄さんは俺から掃除機を取り上げると「よよよよ……」とわざとらしく床に崩れ落ちた。この鬱陶しい挙動はまさしく兄さんのものだ。
何故兄さんがこんなところにいるのだろうか。まさか不法侵入か? 明喜や学園の誰かに見つかる前に早いところ追い返したほうが良いかもしれない。
兄さんが政府に捕まろうと知ったことではないが、身内に犯罪者がいることで犬太郎の将来に影がさしてはいけない。
「何故此処にいるのかはこの際どうでも良いが、とっとと此処を出て――――」
「あ、学園側に立ち入り許可証を請求すれば結構簡単に入れるみたいだよ。まあ、其処は家族だからだろうね」
「どうでも良いと言っただろ。――……待て、それを使えば合法的に犬太郎と暮らすことも可能か?」
「無理だと思う」
「そうか……」一瞬、物凄く期待しただけに気分が沈む。なんなんだ、兄さんは俺をさらに落ち込ませるために送り込まれた刺客だとでも言うのか。
あからさまに肩を落とした俺を今更不憫に思ったか、兄さんは眉を下げ、優しげに笑いながら俺の頭を撫でた。
「お前は本当に犬太郎が大好きだねえ。落ち込まないでよ、しょーちゃん」
「犬太郎のいない世界など存在している意味はない……!」
「なんかRPGのラスボスみたいなこと言ってるね。世界“に”じゃないんだ」
「ううむ」と悩ましげに唸っていた兄さんは、突如思い出したかのように持ち込んできたらしい大ぶりな鞄の中をごそごそと漁り始めた。
そして何かを取り出したかと思えば、それを頭部に装着する。これは……、犬耳か? たらんと垂れた耳は何処か犬太郎を思わせる。
「こんなこともあろうかと犬太郎の抜け毛を集めて作った犬耳を持ってきたんだ。僕を犬太郎と思って可愛がってくれても良いんだよぉぉぐっ!?」
「可愛くない!!!!」
「まさか言葉の前に男子全力の顔面パンチをぶちこみにくるとはさすがの笑輔さんも予想外だったよ……。ちょっ……、鼻血出ちゃった。ティッシュある?」
兄さんに対してこれほどまでの殺意を感じたのはこれが初めてだった。鼻を押さえて兄さんは震えている。
いくら犬太郎を侮辱されたからと言って、少しやりすぎてしまったかもしれない。仕方なくティッシュを渡そうと箱を手に取ると、ちょうど切らしてしまっていたようだ。
多分リビングにはまだ残っているだろう。「少し待っていてくれ」と声をかけて、俺は部屋の扉を開けた。其処に見えた倒れ伏す学友たちの姿に扉を閉めた。
「どうしたの、しょーちゃん。ティッシュがないなら、ないで良いよ。ハンカチで押さえちゃえば良いしね」
「……扉一枚隔てたところで何やら事件が起きていた」
恐らく、眠っていたというよりは気絶してしまったのだろう。眠るにしては場所も体勢も不自然すぎる。
明喜は俯せであったし、大株は明らかになんらかの衝撃を受けて吹っ飛んだようだった。花坂など白目を剥いていたのだ。
また鞄を漁ってハンカチを取り出すと、兄さんはそれで鼻を押さえた。みるみるうちに赤に染まっていくハンカチは些か滑稽だ。
俺の言葉に片眉を上げた兄さんは、しばらくすると納得したように「ああ、」と声を上げた。
「もしかして、リビングにいたのはお友達かい?」
「兄さんが入ってきたときには、もうこの状態だったのか?」
「いや、しょーちゃんも年頃だし、家族が学校見学に来てることを生徒たちには知られたくないんじゃないかと思ってね、少し眠ってもらったんだ」
「なにしてんだお前」
――――――
志賀崎ファミリーの一員登場。次男。