その日、メランコリィが共用のロビーに足を伸ばしたのは、偶然だった。 元はと言えば、いつもより二時間も早く目が覚めてしまったことに原因がある。 すぐに寝直そうとしたのだが、どうにも寝付けない。 仕方なく、彼女はそのまま身支度を整えた。 どうせ朝食前にはミーティングがあるのだから、たまには余裕を持って支度をしてもいいだろう。 普段なら、朝の支度の時間や、ちょっとした余暇は友人のミゼルカと過ごすのがお決まりなのだが―― (……この時間じゃ、お姉さまも起きてないでしょうね) ため息をつき、メランコリィはロビーに向かった。 そういえば、あそこにはピアノがあるのだ。戯れに弾いて、時間を潰してみることにしよう。 しいんと静まり返った廊下を歩き、メランコリィはロビーに足を踏み入れる。 ピアノの前に行こうとすると――視界の端、共用のソファーの上に思わぬものが見え、メランコリィは、小さく悲鳴を上げた。 (ちょ、ちょっと――ミーティングまであと一時間以上もありますのよ!? なのに、なんで……!) 彼女の視界に入ったもの――それは、彼女の仲間であり、同時に最も恐れる少年でもあるフリーセルだった。 最も会いたくない相手に出会ってしまい、メランコリィは恐怖で凍りつく。 今すぐにでも踵を返したいところだが、露骨な態度を取れば彼の機嫌を損ねてしまいかねない。 「ご、ごきげんよう……フリーセル。ずいぶん早いんですのね」 愛想笑いを浮かべながら恐る恐る声をかけてみる。が、返事はない。 ソファに腰掛けてうつむく少年の表情は、さらりと垂れる髪に隠され、彼女のほうからは窺えなかった。 (何なんですの? も、もしかして何か怒ってますの?) 機嫌を損ねた時の彼は、何をするかわからない。当たり散らされやしないかとメランコリィは身構えたが、 (――あ、もしかして) そろりと少年に近付き、顔の下でひらひらと手を振ってみる。案の定、無反応である。 ……どうやら眠っているらしい。それが分かり、メランコリィは脱力した。 (な、なんだ……びっくりさせないで欲しいですわ……) メランコリィはほっと胸を撫で下ろし、改めてフリーセルに向き直った。 (……それにしても、あのフリーセルが人前で寝ているなんて。ここ数日、大門カイトたちとの対決で忙しかったから、無理もありませんけど) 珍しいものを見たとばかりに、メランコリィはフリーセルをまじまじと見つめる。彼の前髪に手を伸ばし、そっと払ってみると、端正な顔が露わになった。 しかし、眉を寄せ、時折苦しそうな息を漏らすその寝顔は、決して安らかなものではなかった。 (魘されてる……みたい、ですわね……。でも、ちょっといい気味――なんて) ふふっ、とメランコリィの口から黒い笑みが漏れる。 彼女がしばらく寝顔を眺めていると、微かにフリーセルの唇が動いた。 「……、」 彼の手が力なく動き、空中をさまよう。メランコリィの袖に手が触れると、そのまま指先できゅっと掴んできた。 「きゃっ、起……起きてましたの!?」 メランコリィは慌てるが、フリーセルはそれには答えず、涙混じりの声でつぶやく。 「……行かないで、」 「え、」 「ママ……」 メランコリィの袖を掴む指に、一層力が篭められる。まるで、小さな子供が母親の手を握って離さないように。 (ま――『ママ』? なんだ、寝言でしたの……。) 本当に起きたら厄介だし、長居は無用ですわね――。 そう考え、彼女はそっとフリーセルの指を袖から離そうとする。 しかし、思った以上に強く掴まれていて、無理に剥がすと起こしてしまいそうだった。彼の指が自然に離れるまで、待つしかないようだ。 (……ま、そのうち離れますでしょ。そうしたらすぐ立ち去ってやりますわ) 彼女は、そう決意したのだけれど。 |