稲妻11.
□流れゆくアイロニー
1ページ/1ページ
お日様園から人がいなくなった。
誰も誰もいない施設内で、私はパンをかじる。少し前なら瞳子お姉さんが焼いてくれたマフィンをホットミルクで流し込んで大慌てで家を出るのが私の日課だったのだが、もうそんなふうになることもない。気味の悪い静けさを放つお日様園は寝つきが悪く、私は毎朝早めに起床するようになっていたのだ。
“なまえ、俺は行くよ。父さんのために”
そう言って家を飛び出したヒロトは、元気だろうか。いや、元気なのだろう。この間テレビでサッカーをしている姿を見た。たくさんの仲間を従えて、相手の選手たちを痛めつけていた。
私はお日様園の皆に心底失望していた。
大切な人を失う苦しみも。逆らうことのできない絶対的な力に気圧される悔しさも。それら全てからはっきりと明確にされてしまう自分自身の矮小さと向き合うことの痛みも。全部全部、私たちはわかっているはずじゃなかったのか。誰よりも何よりも、身をもってそれらを体験したじゃないか。これ以上誰かが苦しむ姿は見たくないとは、思わなかったのだろうか。
「なにが…父さんのために、よ」
結局、自分のためじゃない。
父さんに捨てられて一人になるのが怖かっただけでしょ?自分がまた不必要な存在になるのが怖くて怖くてたまらなかっただけ。それを、如何にも育ててくれた恩を返すみたいなきれいな言い方して。
私は一人になるのなんて怖くない。
ヒロトたちがいなくなって、今日で何日目?
「……なまえ、」
光が差し込むカーテンが、隙間から入り込んだ春のあたたかな風に揺らされてふわりと舞った。そこから覗き込む透明なガラスの向こうに、確かにその人はいたのだ。
「ひろ…と?」
私が名を呼ぶと、ヒロトはへらりと弱弱しく笑った。
「なまえ、まだここにいたんだね……お日様園は、じきにエイリア学園の一部になるよ。だから、ほかの孤児院に……」
「ヒロト……私は、ここにいるよ」
私は窓辺に近寄って、窓を全開にした。目の前に佇むヒロトを、睨みつけるようにして見上げる。
「ほかの孤児院なんて行ってやらない。私は、私だけはここにいる」
「なまえ、でも……」
「私だけは、孤独から逃げない」
そういうと、ヒロトは少し驚いたような顔をしたあと、すぐに悲しそうな顔をした。
「風介も晴矢もヒロトもバカだよ……みんな、自分のことしか考えてない」
「……っ俺は……!」
「そんな弱虫たちなんてみんな、嫌いだよ」
私がそういうと、ヒロトは絶望的な目をして「あ…なまえ、違う…」と口をぱくぱくさせた。私はそんな彼を尚も睨む。
「私は、自己保身のために他人を傷つける人が一番嫌い」
「なまえ…違う、違うんだ…」
「だから」
私はぎゅっと拳を握りしめながら言った。声が震えていたかもしれない。鼻の奥からつーんとした感覚がこみ上げる。
「早く…帰ってきなさいよ。ここは私が守っているから」
「なまえ…」
「またみんなで、バカみたいに笑える日がくるって、信じてるから」
ちょっと声がうわずってしまったかもしれない。私は涙をうっすらと浮かべたまま、にこりと微笑んでみせた。
ちゅ、とヒロトの頬に唇を寄せてみる。ヒロトはすごく驚いた顔をしていたが、すぐにへにゃりと嬉しそうに笑った。
「ばいばい、宇宙人さん」
私はそう言って窓をしめ、カーテンをしめた。そのままずるずると床に座り込んで、嗚咽して泣いた。
しばらくした後に窓をあけると、そこにはもう、誰もいなかった。
流れゆくアイロニー
(またね、ばいばい。)