カゲプロ


□霧雨〔前編〕
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オレの住む森の奥深くに人間が迷い込むという稀なことが起きてから今日で三日だ。
一昨日社に帰ってきた時は(あの日は一日山の頂で過ごした)また静かに過ごせると思っていた。
というのに。

何故こいつはここにいるのだ。

「ねぇ、見てみて!露草に雫がついてる。本当に露草だね」
「…向こうにもっとたくさん咲いてるぞ」
「本当!?あ、一緒に行こうよ!」
「は!?いやオレは…」
「いいから!」
手を掴まれ、無理やり引っ張られる。
こいつを追い払うために言ったのに何故オレまで連れて行かれるはめになるんだ。
本当にどうすればいいのか分からない。
こんなことは初めてなんだ。

一昨日、オレが社に戻ってから少し経った頃。
人間に教えてやった道から石の落ちるような音が聞こえた。
気になって、というよりも嫌な予感がしてオレはそっとそこを覗き込んだ。
そして――あの人間と目が合ったのだ。

正直信じられなかった。
ここは山の奥も奥。
それも氏神の社が建てられるような場所なのだ。
ただの人間が容易く登ってこられるような場所ではない。
なのにこいつは昨日の今日でここまで登って来たというのか。
人間は固まったオレを見ながら、言った。
『良かった。また会えたね!』
その瞬間、また跳ぼうとしていたオレの足が縫いつけられたかのように動かなくなった。
いや、違う。
動かせなくなったのだ。
オレがこの辺りを護るようになってから大分経つ。
その前の時代も含めると裕に二千年は経っているだろう。
その間、オレはずっと独りだった。
こんなところに住んでいるのだから当たり前だが。
だからきっと、オレに会いに来たと言うような言葉が――嬉しかった。
そしてオレはまた人間に捕まってしまった。

そんなことがあってから数日。
毎日やって来る人間が嫌なら逃げればいいだけなのに、オレは逃げずにいた。
なんとなく逃げる気が起きなかった。
それにこいつは危なっかしすぎる。
目を離すとすぐ転んだりして、本当にいつもどうやってここまで来ているのか不思議で仕方がなかった。
ぼうっと露草と人間を眺めていると、人間が興奮気味に話しかけてきた。
「ねぇねぇ、もしかして他にも花って咲いてるの?」
「少し下った小川の周りに特に咲いてる」
「!ちょっと見に行ってくる!」
「あ、その辺滑りやすくなって――」
人の話も聞かずに人間は沢を下りだす。

そして案の定――
「きゃぁっ」
転んだ。
「ったく…!」
オレ自身の移動では間に合わなさそうだったので、小さく風を使って人間の身体を支えた。
そして人間を抱え、小川まで下りてから岩の上にそっと降ろす。
「…お前は少し人の話を聞け」
「ぅ、ごめんなさい。…ねぇ」
「何だ?」
「助けてくれてありがとう」
「…別に」
何故か気恥ずかしくてふいと目を逸らす。

笑う人間を見るのが眩しく感じた初めての感覚だった。                            

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