最遊記

□SPIRAL
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僕が書庫に入って扉を静かに閉じかけた時、「鍵を締めろよ」と、奥の方から良く通る声が響いた。
素直に返事をして内鍵を閉めた僕は、再びシンと静まり返った空間を声がした方向に足を進めた。
…何度も来た場所なのに、人の気配が全く無いからだろうか?
天井に届きそうな沢山の本棚が迷路のようで、妙な圧迫感さえ感じるのは…

「三蔵さん、ココでしたか」

閲覧広場の中央テーブルに彼の後ろ姿を見つけると、先程感じた不安は安堵へと変わった。
パイプ椅子に座っている彼は、数冊の古書を傍に積み上げて一服していた。
法衣の上を腰紐まで脱ぎ落とした姿は、黒のノースリーブとロンググローブの隙間から覗かせた上腕の白さを際立たせている。
声を掛けても振り向く素振りを見せず、吸いかけの煙草を灰皿で揉み消す彼。
無愛想な反応は仕事をしている時の彼には暫し見受けられたので、僕は構わず隣に行くと卓上の本に眼を向けた。

「調べ物は何です…っ⁈」

言いながら目の前の本に手を伸ばしかけた時、彼が突然僕の手首を掴んだ。
ゆっくりと僕を見上げるその瞳は、狩りをする鷹のように鋭くギラついて見えた。
本能的に手を振り解こうとするより早く、彼は立ち上がり僕をテーブルに押し倒した。
体重をかけるように僕の両手首を押さえ付けながら、もがく両脚の隙間に素早くその身を割り込ませる。
一瞬にして全ての抵抗を奪われ、最早身じろぐ事しか出来なかった。
戸惑う僕を見下ろす彼の顔に、冷笑が浮かぶ。

「調べ物なんて、悟空を納得させる為の口実に決まってんだろ?」

…この状況は、まさか……悪い冗談、ですよね?

思わぬ展開に動揺を隠せないでいると、彼は僕の間抜けた半開きの唇にその唇を重ねた。
いよいよ認めざるを得ない状況に追い込まれた僕は、慌てて顔を背けると口内に侵入する舌から逃れた。

「ちょ…ちょっと待って下さい‼あの事があって勘違いさせたのかも知れませんが、僕、そんな気は…」
「勘違いしてんのはてめぇだ。てめぇの気なんざ、関係ねぇんだよ」

彼は苛立たし気にそう言い捨てると、僕の首筋へと唇を落とし始めた。

…『勘違い』って、どういう事だ?

彼という人間が判らなくなってしまった僕は、ショックで茫然となった。

罪人の僕には、拒む権利すらないと?
貴方は身勝手な排泄欲を満たす為に、僕を性奴隷の様に扱うんですか?

「どうして…」

無意識の呟きは、彼の行為を中断させた。
彼は徐に顔を上げ僕を見ると、呆れた声でこう言った。

「何故かって?賢いくせに、そんな事も判らねーのか?」

その瞳は欲情だけでなく、あの時と似た怒りを孕んでる気がした。
彼が僕を抱いたのは、死に魅入った愚かな僕に怒りを覚えたからで…あの行為は、そんな僕を戒める為のものだと思っていた。
だから、罪を背負って生きる決意をした今の僕を、彼が何故再び戒めようとしているのか理解出来なくて…
けれど、もしかしたら…?

「僕…貴方を怒らせました?」

躊躇いがちに答えれば、彼は口元を意地悪く吊り上げた。

「あぁ、確かにムカついてはいるがな。何に対してか当ててみろよ?正解なら許してやるよ」

この状況から一刻も解放されたかった僕は、今日のやり取りを振り返り、彼の気持ちになって思い当たる事を口にした。

「…眼鏡の事ですか?気に入らないと仰ってましたし…三蔵さんのご厚意を御断りして気分を害されたのなら謝ります。でも…」
「外れだ。てめぇは肝心な事は、何も判っちゃいねぇんだよ」

僕の訴えを途中で遮って彼は言うと、僕のベルトに手を掛けた。
起き上がれないように片腕で僕の胸部を押さえ付けながら、もう片方の手はズボンのチャックを下ろして中に侵入してくる。

「やっ…止めて下さい‼大声を出しますよ⁈」
「出せよ。だが俺は、止める気はない」

焦る僕の脅しに彼は全く怯みもせず、宣言通りに手淫を始めた。
その予想外の行為は、僕が大声を出さないと踏んでいるのか、それとも最高僧ともなればこの程度の不祥事はお咎め無しなのか、はたまたそうでなければ言った事の意味を理解出来ていないのではと思わずにはいられなかった。

「っ‼…正気ですか⁈いくら貴方でもこんな事がバレたら、その地位を失うかも知れませんよ⁈」

僕は本気だと睨む目で訴えれば、漸く彼は手を止めた。
けれど…

「あぁ。だから、本気で俺から逃れたいならそうしろ」

僕以上に本気の眼差しで、彼はそう挑発した。
その狂気的な瞳を前にして、僕は狼狽えずにはいられなかった。

「⁈そんな事になったら、経文探しが…それに、悟空だって…」

俗世の富や名声に興味のない彼が『三蔵』を引き継いだ理由はただ一つ、師の形見と言える経文を取り返す為だと聞いていた。
その為に命を危険に晒し人生を捧げてきた彼が、一時の排泄欲の為に本懐を遂げられなくなっても構わないというのか?
それだけじゃない。悟空はどうなる?
三仏神が異端の存在である悟空を彼に任せたのは、彼が最高僧だからだ。
その事は、彼自身が一番理解している筈。
悟空と離れる事も厭わないと?
けれどそうなれば、悟空が悲しむのは明らかで…

今がどうであろうと、凶悪犯の僕を信用して全責任まで負い、生きるよう力強く導いてくれようとした彼の優しさは、本物だった。
情け深くも大罪人の望みを聞き入れて遠い目的地へと連れ、その上経まで詠んでくれた彼に心救われる思いがした。
数多の人を平気で不幸にしてきた僕でも、彼等だけは僕のせいで不幸にはしたくないと願うくらい、特別な存在で…

「そうなるのが嫌なら、大人しく抱かれろ。俺の気が済んだら、さっさと解放してやるよ」

僕の心の内を読むように、彼は傲慢に言い放った。
口惜しくて、唇が戦慄いた。

「…まるで脅し…じゃないですか…」
「ついでに言っとくが、俺はこの関係を終わらす気は無いからな」
「どうして…貴方が僕にしようとしてる事は、百眼魔王が花喃にした事と変わらないじゃないですか⁈」

信じていた彼に裏切られた思いで、激しく非難していた。
次の瞬間、僕を見下すアメジストの瞳が冷酷な光りを放ち、ゾクリと戦慄が走る。

「そうかもな。だがそれなら寧ろ、お前にとって好都合じゃねぇのか?」
「…どういう意味、ですか?」

彼の言葉は、我が耳を疑うものだった。
彼は僕の身を離して椅子に座ると、テーブル上の煙草ケースに手を伸ばした。
身を起こした僕が無言で見つめる中、咥えた煙草にライターの火を吸い寄せた彼は、うんざりとした様子で紫煙を吐いた。

「好きでもない男に散々凌辱され続けた姉と、同じ思いを味わえるんだ。双子特有の共有意識ってヤツで、姉の苦悩を計り知ることが出来なかった自分に憤りを感じてんだろ?俺に犯されている時のお前は、罰を強請るような瞳をしていたからな」

闇をも暴くような紫電の瞳が、僕を真っ直ぐに捕らえる。
見事なまでの推察に降参させられ、先程までの怒りは消失していた。
今は雨の夜でもないのに、気分はあの時に逆戻りした様で…
逃れられない呪縛に、思わず苦笑が漏れる。

「…やはり最高僧ともなると、そういう事も見抜いてしまうんですね。あの時、確かに僕は貴方から罰を与えられている錯覚に酔いしれていました。…けれど少し違います。だって男の僕が花喃と同じ思いなんて、味わえる訳ないじゃないですか?望まぬ妊娠とはいえ、罪のない我が子を宿した腹を切り裂いての自殺ですよ?その心境がどんなものだったのか、僕は永遠に知る事もない。貴方を百眼魔王の様に憎む事が出来ないから、尚更」

醜く病んだ僕の告白に、彼は眉ひとつ動かす事は無かった。

「…三蔵さん。もし…僕が助けに行かなかったら、花喃は死ぬ事もなく子供を産んでたんでしょうか?」

僕の目の前で命を絶った花喃。
囚われていた間も、死ねるなら直ぐに死にたいと思っていたんじゃないだろうか?
だがそれをしなかった理由に、僕の存在があったのではと考えずにはいられなかった。
もし、抵抗したり自殺したら僕を殺すと脅されていたのなら?
僕が百眼魔王を殺した事で、花喃は漸く脅しから開放されるように死を選んだんじゃないかって。
僕の闇を簡単に見透かす彼なら、一度も会った事のない花喃の胸中でさえ、僕よりも遥かに察しているような気がしたから…

けれど彼は、真実を知りたくて縋る思いで問う僕に「さぁな」とだけ返すと、こう続けた。

「だがお前に罰を与えられるのは、俺だけだ。俺以外の奴に抱かれた時は、死ぬ以上の後悔をさせてやるから覚悟しろ」
「…分かりました。悟浄に濡れ衣を被せると言った様な脅しは、もう二度と御免ですから」

僕の考えを読み取ったとしか思えない内容に、完敗させられたような気がした。
流石は最高僧様ですね、と内心こぼした僕は、自嘲の笑みを力無く漏らした。
観念した僕に気を良くした彼は、殊勝な笑みを浮かべた。

「物分かりがいいじゃねーか。じゃあ咥えろよ」
「…え?」

椅子の背に凭れた彼は、僕を促すように組んでいた脚を開いた。
その雄々しい姿は、絶大な支配者である王そのものに感じられて…
けれど受け入れ難い指示に戸惑う僕を、彼は鋭い眼で睨み付けた。

「俺を百足野郎と同じだと言った罰だ。まさかマグロで済ませられると思ってたんじゃねーだろうな?てめぇの女も囚われていた一年間、百足野郎相手にそれで済んでたと思うか?」
「…」

百眼魔王に囚われていた花喃の生活がどんなに惨めなものだったのかを、想像しなかった訳ではない。
けれど僕は、真実から目を背けるように必死にそれを否定してきた。
なのに確信めいたその問い掛けが、僕のなけなしの望みを非情にも奪い取った。
事実を突き付けられたような絶望感から返す言葉も見つけられない僕に、彼は更にこう言い放った。

「飽きた女は直ぐに喰う事で知られていた百足野郎が、貴様の女だけは喰わずに孕ませるまでに至った。姉弟揃って、男を虜にするのは得意なようだな」
「…花喃を侮辱するのは、止めてください」

やっと出た小さな声は、怒りを隠し切れずに震えていて…
睨み付けるしか出来ない僕に、彼はフッと笑いを漏らした。

「俺は褒めてんだぜ?俺を狂わせた代償は、高くつくから覚悟しろ」

あの時と同じ、怒りと狂気を孕んだ紫電の瞳が、妖しく細められる。

生きていかなければならない罰に嫌気が増し、義眼を抉り出そうとした、あの雨の夜。
あの時、八つ当たり的な怒りを貴方に晒さなければ、きっと僕達はこんな風にはならなかった筈で…
だって貴方は、僕をただ純粋に救おうとしてくれていたというのに。
僕の所為で、花喃も、貴方も…

「ほら、早くしゃぶれよ。全く同じとはいかねぇが、真似事をさせてやるって言ってんだ。てめぇの望みだろうが?」

感情の読めない硬質な声は悪魔の囁きを思わせる程甘美で、下裾をはだけさせて欲を露わにしたその姿は、生々しいが醜悪ではなく、寧ろ神憑り的に美しかった。
畏怖の念さえ抱かせる魅惑の瞳に囚われた僕は、洗脳的な倒錯に支配された。
ありもしない雨音が、頭の中で静かに響き始める。

彼からの罰を受け続ける事が、亡き彼女へのせめてもの慰めになるような気がして…

僕は操られるように彼の前に跪くと、崇拝の対象のように佇むそれを、恐る恐る口にした。
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