最遊記

□BE HERE
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「猪悟能か…?」

暗闇の中、扉から漏れる少しの灯りでも知ることが出来る、強い輝きを放つ美しい翡翠の瞳。
この俺が、赤毛のチンピラ如きに易々と銃を奪われたのも、あの魔性の瞳に一瞬眼を奪われたからだ。
邪魔されなければ、逃げる大罪人を銃で打つ事が出来ただろうか?
殺す訳ではない、逃げない様に足を狙えばいい。
しかしそれさえも一瞬躊躇した。
翡翠の瞳を更に際立たせる、美しい顔立ち。
男相手にそう思う自分に戸惑った。

「随分とご執心だな」
「貴様は何を期待している?」

悟浄と名乗る男が、素性も知らないあの悟能という男に執着していると感じた時、何故か苛立ちを覚えた。

自らの瞳を抉り、まるで痛覚がないかのように薄ら笑いを浮かべる悟能。
その深い湖水色の瞳は、膨大な憎悪の渦で悲壮を呑み込もうとしているかの様に、さざ波立って揺らいで見えた。
仲間だと信じた人間達から裏切られた事で孤独感と絶望感に蝕まれ、大切な者を奪った妖怪達への強い復讐心によって生まれた狂気が、奴を人ではないものに変えた。

『千の妖怪の血を浴びると妖怪になれる、という言い伝えがあるのをご存知ですね』

お師匠様の言葉を突然思い出した。

『人間の中には、妖怪の強い力に憧れる者もいます。
心無い人間達によって多くの妖怪が犠牲になりました。
しかし、単に浴びるだけでは妖怪になれません。過去にもそれは証明済みです。
伝説は信憑性を失い、愚かな殺戮は起きなくなりました』

この話は仏教に帰依する者なら、誰もが知っている事実だ。
お師匠様は時々、突拍子もない話をしだす。
俺は庭掃除の手を止めると、縁側に腰をかけて和かな笑顔で話すお師匠様に無言で頷いた。

『先程、僕の知人が訪れまして。
最近、三蔵に成ったばかりの若者なんですけどね。彼、天才肌の学者タイプみたいで。歴史に唯一記載されている、人間から妖怪へと変貌を遂げた者の過去に興味を持ったそうで、調べた事を私に教えてくれたんです』

お師匠様はそう言うと、話の途中でパイプに火を付け煙草を燻らせた。
先程まで、三蔵の証拠である経文を肩にかけた黒髪の男が、お師匠様と縁側で楽し気に話していた。
俺はその様子を庭掃除をしながら遠目に見ていたので、話の内容までは解らなかったが…何故か近づくのを躊躇った。
その男がちらりと俺を見た時、男から滲み出る得体の知れない気配が、何故か俺を拒絶するように感じたからだ。

『大切な者の為の復讐で、千の妖怪を殺したという真実が隠されていたそうです』

黒髪の男に意識を引き摺りかけたが、お師匠が続けた言葉で俺は我に返った。

『絶望の中で自身をも拒絶し、妖怪に対して強い憎悪と純粋な殺意を持った者だけが、千の妖怪の血を浴びて妖怪になるのかも知れません。自分が最も憎む姿になってしまった者は、どの様な末路を辿るのでしょうね?』

お師匠様のその難しい質問に、当時の俺は答えを返す事が出来なかった。

しかし、今なら解る。
その者の末路は己の運命を呪い、死を求めた筈だと。
悟能の瞳がそれを伝える。
湖水色の瞳が、闇を映し出すように黒く濁って見えた。

死なせるものか。

世話になった恩人を巻き込まない為に、追手の俺達が共犯の疑いを向けない様にと、直ぐには逃げずに庇う台詞を遺して去ろうとした悟能。
大罪を犯したが、本来はどんな状況でも人を思い遣る事の出来る、心根の優しい男であるはずだ。
そんな男をこの世に縛りつける唯一の言葉を口にした。

「お前が生きて、変わるものもある」

変わるのはこいつらだけじゃない。
俺自身の事でもあると、訳も分からず確信した。
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