fiction.

□小説のように
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あの日、セバスチャンと名付けた悪魔との契約を解除した。それは奇しくも2月14日のことだった。悪魔へとこの身を堕としてから英国を離れ、酔狂な主従関係を継続していたが、人間であった頃とはやはり勝手が違っていた。睡眠や食事は不要、ある程度の傷は半日ほどで完治してしまう。つまり執事としての仕事はほとんど皆無であるということだ。
そして、決定的だったのは双方の感情。僕は復讐への執着心を失い、強制的に手に入れてしまった生を過ごすだけ。そしてあいつは僕の魂を食らう目的を失い、ただ無感情な瞳のまま僕の周囲で毎日同じセリフと動作を繰り返すだけ。そんな日々を過ごすことに意味を見出せということ自体に無理があるだろう。
それでもあいつは僕から離れることはできない。それは互いに刻まれた契約印の執行力によるものというだけで、そこに私情などは微塵もない。
そんなセバスチャンを眺めるのにも飽きてきた頃、契約解除に至る決定的な事件が起こった。気まぐれで人間界の界隈にあいつと降り立ち、にぎわっている並木通りに建ち並んだ店に入った時だった。
気に入った掘り出し物の小物を見つけ、購入しようと顔を上げると珍しくあいつの姿が近くになかった。
「セバスチャン?どこに行ったんだあいつは…。おいセバ」
 全身漆黒の長身の男を見つけ出すのは容易かった。声を張り上げる間もなく僕はあいつを視界に捉えた。だがあいつが視線を向けていたのは、生きた人間の女だった。久々に見たあいつの緋色の瞳は、魂に惹きつけられる悪魔そのものでうっすらと笑みさえ浮かべていた。もう未来永劫あのような表情や瞳が僕に向けられることはない。当たり前だ。だって僕もあいつと同じ、悪魔なのだから…。
 そう再認識している自分に思わず笑みが零れた。
「おい、セバスチャン」
「っ!申し訳ございません。なんでしょうか」
「さよならだ」
 人ごみにも関わらず、僕は契約印が刻まれた右目をさらけ出した。今更隠す必要もないだろうが、セバスチャンは眉を顰め片手で眼帯を付け直そうとしてきた。それを躱しつつ、僕は自ら片目に触れそのまま一気に契約印が刻まれた眼球を傷付けた。契約印は恐らく真っ二つに引き裂かれただろう。かなりの激痛と共に最後に左目に映したのは、あいつの驚愕し見開いた瞳だった。周囲の人間が、この大胆な自傷行為に気付き騒ぎ出す前に僕は急ぎ店を出た。
背後にセバスチャンの声を聞いたような気がしたが、それが迫って来る気配はない。漸く自由にしてやった。羽根をもがれたような烏のようなあの悪魔に、再び空を与えてやった。そんなことをぼんやり降り始めた雪を見上げながら考えていた頃には、傷付けた眼球は既に治癒し機能も回復していることに気付いた。だがそこには、再びあいつとの契約印が浮かび上がることはなかった…。


坊っちゃんから目を離してしまったのはほんの一瞬。例えるなら、人間が焼きたてのパンの香りに誘われた時のような、そんな半ば条件反射的なものだった。
しかし、その一瞬で全てが変わってしまった。坊っちゃんに気付き意気なり別れを告げられたかと思えば次の瞬間には契約印が主自らの爪で引き裂かれていた。止めようとするも、手の甲に刻まれた契約印が熱を持ったかのように痛みだし、更に今まで経験したことがないような頭痛に襲われた。
人混みにも関わらず壁に背を預け漸く痛みが引いた頃には彼の姿はなく、契約印が失われた今となってはその気配を追うことすら困難となった。
…?…彼?
彼とは誰のことだろうか。何故私はこのような人間の使用人のような服を?
一体何故人間界に。おかしい。記憶がすっぽりと抜け落ちている。
「私は、今まで何を…」
「あの、大丈夫ですか?酷く顔色が悪いようですけれど」
「あぁ、申し訳ありません。大丈夫です。ただ、…ただ、空腹で目眩がしただけですので」
そう。そうだった。私は、酷く空腹だ。飢えを満たすために、私は心配を絵に描いたような店員らしき女を尻目に店を出た。早く、早く餌を探さなくては。
この空腹を満たすに値する極上な人間の魂を…。
そう思い、まるで子どもの飯事のような装いの燕尾服を脱ぎ捨て、私は直ぐ様魂の匂いを嗅ぎわけ獲物の元へと向かった。しかし不思議なことに私の左手に刻まれた契約印らしき痣が疼き、そして生涯その痣が消え去ることはなかった。



セバスチャンの元を去ってから半月程過ぎただろうか。あの界隈からどの道を通り、どうやってここまで来たのかはもう忘れてしまった。
あれから何度か雪が舞い散ったが、人間ではないこの身体には大した問題ではなかった。

誰も僕を知らない。

有能な執事だけでなく、ファントムハイヴ伯爵という名を捨てた僕はただの無力な生意気な子どもでしかないことは解っていた。
だからと言って、今更誰かの元で働くのも、孤児院で無能な神に忠誠を誓うのも、大人に媚を売るのも真っ平だった。
終わるはずだった生。描く必要すらなかった未来を前に、復讐を遂げた僕はただ立ち止まっていた。いや、その先に進む理由も意味も感じなかった。故に立ち止まっていたというには語弊があるのかもしれない。
躊躇や迷いに枷を付けられて進めないのではない。これは僕自身の意思だ。進むことを自ら放棄した。そこには一切の余計な感情など入り込む隙はない。未来を望まない。だから僕はここで終わる。
セバスチャンと決別した以上、今の僕の存在の有無に介入する者など。
「おや、伯爵じゃないか。こんな所で奇遇だねぇ」
「…その言葉、そっくりお前に返すぞ葬儀屋」
僕を伯爵と呼ぶ者はまだいた。僕とセバスチャンの正体を知り、先代ともそれなりに深い付き合いをしていた元死神。
「小生は柩に適した材料を集めに来たのさ。伯爵こそ、こんな枯れ木しかないような冬山に何用だい?あぁ、ひょっとして迷子」
「お前まで僕を子ども扱いか。まぁいい。用が済んだらさっさと行け。お前が行かないなら僕が」
「執事君とは。…あの有害な悪魔とは手を切ったようだね」
話を早々に打ち切り独りになろうと踵を返すが、不覚にも葬儀屋の口から出たセバスチャンの事に足が止まってしまった。すべてを解っているのか、たまたまセバスチャンの気配が近くにないから憶測で話しているのかまでは判断しかねるも、僕の生前からこいつはずっとセバスチャンを嫌悪しているようだった。

『君は伯爵を不幸にしかしない』

確かそんなことをこの元死神はセバスチャンに言い放っていた。その言葉の真相は結局追の追まで知るよしもなかった訳だが。
「これで良かったんだよ。伯爵」
「お前は、何処まで予想していたんだ」
僕とセバスチャンがいずれこうなると解っていたかのような口ぶりに、僕はゆっくりと葬儀屋に向き直った。
「悪魔との契約なんて良い最期が在るわけない。こんなのは誰だって判ることさ。だけどね伯爵、小生は。…小生なら伯爵が望む本当の願いを叶えてあげられるよ」
「僕の本当の願いだと?」
解ったような口をきく。僕の本当の願いを叶えるなど、それこそ御笑い草だ。
だが、どのみちこれ以上進まないと決めたんだ。最後の余興に、こいつの口車に乗るのも悪くはないと、僕は口許に笑みを浮かべてこう言った。
「面白い。僕の願いとやらを叶えてみろ」
「お安いご用さ。さぁそうと決まればこっちへ、今晩は特に冷える。雪が降るかもしれないね。朝は一面真っ白さ」
葬儀屋に背中を押されるまま、僕は来た方向とは真逆の道をくだる。前日に降って僅かに積もり残っていた雪を踏み締めながら、僕と葬儀屋は見知らぬ町へ続く道をただ黙々と歩いていった。
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