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□明日は特別な日
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最近、いつも以上に母さんの機嫌がいい。
その理由にはなかなか気がつかなかったけれど、リビングの壁にかけられているカレンダーを見てようやく納得した。
カレンダーの日付に、赤ペンで大きくハートマークが描かれている。
その日は、父さんと母さんの結婚記念日なのだ。
鼻歌交じりに夕飯の用意をしている母さん。
父さんは雑誌の取材があるらしく、まだ帰宅していなかった。
「母さん、明日はじいちゃんたちの家行けばいいんだよね?」
今オレたちが住んでいる家と、じいちゃんたちが住んでいる家はそれほど遠く離れていない。
父さんと母さんが結婚する前はじいちゃんたちも日本とアメリカを行き来していたらしいけど、今はもうすっかり日本で落ち着いているのだ。
父さんたちも少なくともオレが学校を卒業するまでは日本を離れる気がないらしい。
だからオレは、父さんと母さんの結婚記念日だけはじいちゃんたちの家で過ごすのだ。
それは単純に、父さんと母さんが一日中ふたりきりでいて欲しいから。
誕生日は家族全員で祝うのが恒例だけど、はっきり言ってしまえば父さんと母さんの結婚記念日にオレは関係がないから。
普段からバカップルよろしくいちゃついてる父さんと母さんだけど、オレがいるから一日中ふたりきりになることなんてない。
ランも連れていくから、本当に毎年ふたりきりなのだ。
少なくとも、オレが小学校にあがった頃からそれが当たり前になってた気がする。
「うん…。ごめんね、リョータ」
「別に、気にしてないから」
オレには関係のないことだし(というのもどうかと思うが)、たまには朝から二人で出掛けるのもいいと思う。
去年は、たしか父さんと母さんで日帰り旅行に行ったんだよね。
でもしっかりお土産とか買ってくるあたり、オレは随分大切にされていると思う。
「明日はどっか行くの?」
「ううん。去年は旅行に行ったから、今年は家か近くでゆっくりしようってことになってるの」
「ふーん」
うふふと嬉しそうに笑う母さん。
おたまを片手に鍋の中をかき混ぜながら、ほんのりと染まった頬に空いている手を添えていた。
きっとこの光景を父さんが見てたら、後ろから抱き締めてたんだろうな、なんて。
雑誌でもテレビでもテニスしてるときもクールなくせに、母さんが関わると途端に性格が変わるから父さんは難しい。
「…あ、帰ってきたかしら」
ふいに頬から手を外した母さんが呟いた。
耳を澄ませば聞き慣れた車のエンジン音がして、それが父さんの愛車のものだとわかる。
次いで施錠してある鍵を解錠する音がして、その音の主が父さんであることが確定した。
「リョータ、リョーマを迎えに行ってくれる?」
「ん…」
オレが行くより母さんが迎えた方が喜ぶと思うけど、母さんはあいにく夕食作りの真っ最中だから手が離せない。
必然オレが出迎えることになって、コップに僅かに残っていた牛乳を飲みほして流し台の上に置いた。
リビングから出て廊下を進めば、ちょうど父さんが靴を脱いで家に上がったところだった。
「おかえり」
「リョータ、ただいま。…由梨は?」
オレを見た途端に、父さんがふっと笑みを浮かべる。
翡翠が混じった黒髪がさらりと揺れ、琥珀色の瞳からは少しだけ疲れた様子が見て取れた。
「ご飯作ってる」
「ふーん…」
取材だからか、珍しく父さんはスーツを着ている。
朝から出かけて今の帰宅ということで随分長かったらしく、相当疲れていそうだ。
ああ、もしかして父さんが明日家でゆっくりしたいって言ったのはこれも理由の一つかも。
せっかくの記念日なんだから、母さんに心配かけさせたくないだろうし。
「明日、学校行ったらそのままじいちゃん家いくから」
「…ありがと」
父さんは母さんとオレとの記念日を大切にする人だから、明日のことも100%覚えているだろう。
唐突なオレの言葉に、父さんは苦笑を漏らしてオレの頭に手を置いてきた。
父さんの、利き腕である左手がわしゃわしゃと母さん譲りの髪を撫でていく。
その薬指には母さんとお揃いの指輪がはまっていて、オレは父さんが結婚指輪を外しているのをみたことがなかった。
オレとテニスをするときだって、邪魔になるだろうに外さないのだ。
母さん曰く、父さんがプロとして試合をしていた時は指輪を外してチェーンに通し首からさげていたらしいが、あまり想像はできない。
「いい加減にしてってば」
むすっとした表情を浮かべて父さんの手をどかそうとしてみるけど、父さんはくつくつと余裕そうに笑うだけだった。
否、実際に余裕があるのだろう。
オレが父さんの手を振りほどけないって知っててやってるに違いない。
「…ってか随分長かったじゃん。何聞かれてたわけ?」
「ん?…ああ、色々とね」
後で話すよ、と父さんはオレの頭から手をどかして言う。
きっとオレの髪は寝起きの時のようにぐしゃぐしゃになっているけど、軽く指を通せばすぐになおる。
たぶん、父さんも母さんも髪がぐしゃぐしゃになってもすぐ直るんじゃないだろうか。
少なくとも母さんの髪がすぐに戻るのは、父さんがよくじゃれてぐしゃぐしゃにしたあと直してるからよく知ってる。
「明日で何年目になるの?」
そういえば、父さんと母さんは結婚して何年目になるんだろうか。
オレは今12歳だけど、当然ながらその前のことは知らない。
「…15年目」
「へぇ」
父さんが母さんと一緒にいる時間を間違えるわけないから、確実にあっているだろう。
それでも一瞬考えたのは、やはり長い年月が経っているからだろうか。
「おかえり、あなた」
「…ただいま、由梨」
リビングの扉を開ければ、ふわりと母さんの作る料理のにおいが鼻孔をくすぐる。
ふわりと笑みを浮かべていった母さんに、父さんも笑みを浮かべて答えた。
「…まだ早いけど、おめでと。父さん、母さん」
いつものようにぎゅうと互いを抱きしめ合う父さんと母さんにそういえば、一瞬だけ目を瞬かせる二人。
そして、すぐに嬉しそうに笑みを深めて「ありがと」と声をそろえていた。
fin,