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□第二章の幕開けを
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前作→アクシデントと幕間
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夜の10時を回った頃、由梨は珍しくベッドに入っていた。
電気は消され、外からの光が入らないようにカーテンは閉め切られており、部屋の中は真っ暗である。
しかし闇夜に慣れた由梨の目には、はっきりとリョーマの姿が写しだされていた。
「リョーマ…」
「ん?」
名前を呼べば、微笑を浮かべたリョーマが優しげに返事をする。
由梨はその事に安心したようにほっと息を吐き、ぎゅうとリョーマの手を握りしめた。
リョーマは嬉しそうな笑みを浮かべ、そんな由梨の頭を愛おしそうに撫でる。
「眠いでしょ?我慢せずに、寝ていいんだよ」
由梨はあまり眠気に襲われることはない。
それはもう何年も日付が変わるまで勉強をし、短い睡眠をとってすぐに起床するという不規則極まりない生活を続けていたからだ。
だから由梨は、越前家に来てから良く睡眠薬に頼っていた。
かかりつけ医から処方された睡眠薬は由梨と相性がいいらしく、つい数十分前に由梨は睡眠薬を飲んでいた。
それを助長するようにリョーマに優しく頭を撫でられ、ますます由梨の眠気を誘う。
「リョーマ、…明日の部活は?」
「明日はオフ、だから由梨が寝るまでここにいても平気なんだよ」
今日は土曜日であり、リョーマの所属するテニス部では部活動があった。
今まで通り、というわけでもないが特に問題もなく済んでいった部活動の時間。
日曜日である明日は、大会が近づかない限り基本的に自主練だけなので自由参加なのだ。
今までは飽きることなく参加していたが、由梨が来てからは自主練の参加率はリョーマだけ著しく低下していた。
とはいえ越前宅の裏にある寺にはテニスコートが整備されており、リョーマは毎日のようにそこでテニスをしているのだが。
「なら、いいんだけど…」
「由梨は気にしなくていいんだよ…。ほら、もうおやすみ?」
「うん……」
リョーマに言われ、由梨はそっと瞼を下ろす。
それから数分頭を撫で続ければ、やがて小さく寝息が聞こえ始めた。
「おやすみ由梨、よい夢を…」
愛おしげに呟いてから、リョーマは由梨の唇に触れるだけのキスを落とす。
既に夢の世界に旅立っている由梨は、それでも嬉しそうにうふふと小さな笑い声を漏らした。
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「あら、随分早かったわね」
由梨が完全に眠ったことを確認したリョーマは、足音を忍ばせて階下へ降りた。
リビングには倫子と南次郎と菜々子が風呂上がりの格好でリョーマを待っている。
「睡眠薬が効くみたい」
寝つきの悪い由梨を、薬に頼らず眠らせるのはほぼ不可能である。
いつもなら由梨に睡眠薬を飲ませることはないのだが、今日、リョーマは由梨に聞かせたくない話をすることになっていたのだ。
「……で、話ってのはなんだ?リョーマ」
リョーマがいつも食事をとる椅子に座ったところで、南次郎が話を切り出した。
今からされることが重要なことであると理解しているのか、いつものおちゃらけた雰囲気はなりを潜めている。
「由梨がこの家にいるってバレてから、色々面倒になってるでしょ?その事について」
リョーマの目がすぅと細められた。
由梨の所在地が由梨の家族にバレてから3日。
彼らは飽くことなく3日間毎日のようにこの家に突撃してきていた。
そのたびに対応するのは倫子か菜々子か南次郎。
初日は学校を休んだリョーマだが、あと何日続くかわからない訪問に備えてずっと休むこともできず、翌日から学校への登校を再開していた。
「あいつらの訪問もうぜぇが、電話もしつこいな。いい加減電話線切りたくなったぜ」
ふん、と鼻で笑い南次郎が言う。
由梨の家族からか桃城からかはわからないが、由梨の所在地はいつの間にか青学生全員が知ることとなっていた。
さすがに訪問はないが、その代わりにひっきりなしに越前宅の電話が鳴り続けている。
それはクラスメイトであったり学年の生徒であったり、由梨に謝りたいと今までにリョーマに何度か近づいた生徒が主だった。
「…由梨のためにも、これ以上由梨をこの家に置いておくのは無理だと思う」
「はぁっ!?何言ってんだリョーマっ」
苦々しい表情で吐き出されたリョーマの言葉に、倫子と菜々子は目を見開き、南次郎はがたっと席を立つ。
常々リョーマは言っていた、由梨は何があっても絶対に手放さないと。
けれどリョーマの今の発言は、由梨を手放すと言っているに等しかった。
…その言葉だけならば。
「何早とちりしてんの、俺が由梨を追い出すとでも思ったわけ?」
しかし次いで発せられた呆れたようなリョーマの言葉に、南次郎はぱちぱちと目を瞬かせる。
どういうことか理解できず、南次郎は大きな息を吐いて椅子に座り込んだ。
「由梨をこのままここにいさせたら、そのうちノイローゼになりそうだから。…由梨が参ってるのくらい、わかるでしょ?」
リョーマの問いかけに三人が頷く。
この家に来てから元気になっていた由梨は、3日前から徐々に表情が曇っていることなど理解していた。
それは由梨が精神的に参っている証拠である。
「だから、由梨はこの家にいない方がいい。でも俺は由梨と離れたくなんかないし、きっと由梨も今は独りじゃいられない」
それはリョーマの、由梨を想っての台詞だった。
毎日のようにしつこくされる訪問。
何度も何度も由梨を呼ぶ家族とも思いたくないが、確かに血の繋がった両親の声。
ひっきりなしに鳴るしつこい電話。
それに対応する倫子たちの声。
どれ一つとっても、それは由梨にストレスを与えるものだった。
倫子たちの対応の声は直接的なストレスというよりも、迷惑をかけてしまったという自分を責めるストレスのことだが。
そこまで聞いて、南次郎たちはようやくリョーマが言おうとしていたことを理解した。
つまりリョーマは。
「だからこの家を出て、俺と由梨の二人で、誰も知らない場所で暮らしたい」
中学1年生でまだまだ幼いリョーマは、愛しい由梨を守るために二人暮しを提案したかったのだ。
欲をいえば、家族全員で誰も知らない場所に引っ越してしまいたい。
けれどそれは金も時間もかかるし、得策ではない。
「…出来ると思ってるの?そんなこと」
倫子は表情を強張らせたまま息子に問うた。
リョーマが由梨を想っていることはよく分かっている。
その提案は、由梨のためを思えば至極よいものだということも。
「あなたたちはまだ中学1年生よ?あなた達には、まだ早いわ」
けれどそれを実行するには、リョーマたちはあまりに幼すぎた。
もしこれが3年後、高校生でのことであれば倫子は反対する気はないだろう。
けれど、リョーマも由梨も、精神年齢は高いかも知れないがまだ12歳なのだ。
「わかってる。俺らだけじゃなんともならないことくらい。…でも、俺は由梨が傷つくのを黙ってみてるだけなんて嫌だ」
どこかアパートを借りるにしても、契約もできなければアルバイトで家賃を稼ぐことすらできない。
義務教育期間の間は、どう足掻こうが親の脛をかじって生きるしかないのだ。
真剣なリョーマの眼差し。
その目に迷いはなく、もし拒否し続けてもリョーマは由梨を連れて家を飛び出しそうだった。
リョーマは由梨を本気で愛している。
故に、リョーマは自分よりも由梨のことを守りたかった。
初めて聞いた息子の願い。
南次郎と倫子は顔を見合わせ、菜々子は戸惑ったように二人とリョーマを見比べていた。
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