Novel

□第2幕*5部
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 アハト―――その言葉を発したフィアの顔がどんなに人間のようであったか。そう呼ばれたクレメントの顔が、どんなに悲しく歪んだことか。お互い見つめあう空間が酷く懐かしかったのだろう―――姉と、弟は。
「俺はあいつの変化ならもう見慣れてる。前みてぇに足がすくむこともない……そして今日。俺はあいつを見て恐れは感じたが、動くことは出来た。つまりあいつらのもたらす恐怖には、共通点があるってことだ」
「ね、それよりも聞いて良い……?」
 これから本題に入ろうとしたコンラッドを遮り、アグライアが声を上げた。先を促したのは自分だというのに、申し訳ない気持ちになりながらも聞こえた単語について確かめたかったのだ。そして教えてくれないあいつの代わりに教えてもらおうと、思った。
「アハト……クレメントって、何者なの?」
「……」
 今まで笑みを刻んでいたコンラッドの顔が、ぴくりと一瞬だけ強張る。だがそれはほんの一瞬で、アグライアが瞬きし終えたときには面倒そうな顔に戻っていた。暫く宙に視線を逸らして、英才は迷っているようだ。何か言おうとして開きかけた口を何度か開閉させて、やっと言葉を紡いだの三分後のことだったのだから。
「―――あいつに直接聞いとけ」
 そして答えがこれである。
「……え?」
「俺からは言えねぇな……あいつの過去は、あいつから言うべきだと思うぜ」
「で、でもっ、教えてくれなかった―――」
「そりゃ、まだ話したくないからだろう……出会ってすぐのやつに話せるほど、簡単な話じゃねぇからな」
 出会ってすぐのやつ、と天才は呟いた。まったくもってその通りだ、自分はこの地には住まうがあの男にとってはよそ者で、見ず知らずの女だ。では何故見ず知らずの女の命を、人々の命を幾度と救った? 信じろと言って、何故自分は信じてくれない? あの男は、何がしたい?
「ああ、でもな……あいつが、お前らを救ってんのは気まぐれだ。あいつには力がある、だからお前らを護ってる、それだけだ。あんま……深く考えんな」
「……」
 気まぐれにしては優しく悲しい表情まで見せたドロイドの顔を思い出して、アグライアは泣きそうな気分になった。ここまで振り回されて自分は何も知る権利もないのだろうか。自分はあの男が頼ってくれるほどの力がないから、教えてもらえないのだろうか。様々な疑問が、顔に浮かんだのかフリードリヒの顔が悲しく歪む。
「さて、話を元に戻したいところだが……そーいうわけにもいかねぇか」
 ちらりとアグライア達に鋭い深緑の瞳を向けて、コンラッドは呟くと胸ポケットに手を入れてピンッと黒い小さな円盤を指で弾いた。賭け事を決めるコインのような軌道を描き、それは表か裏かもわからぬ顔をみせて机の上に乗った。よく見れば少しだけ出っ張っていてレンズがあるようにも見えなくない。
「アリス」
 それに向けて、コンラッドはどう聞いても女としか取れない名前を投げかける。一瞬二人はこのコインは女なのだろうかと思ってしまうほど、その言葉には愛しき恋人に投げかけるような優しい響きがあった。
 だが蜂が羽ばたくような音をたて現れたのは、ほんの人差し指ほどの大きさをした小さな女性の姿だった。
[キャディラック搭載人工知能アリス・メイヤーこちらに]
 アリスと呼ばれたその女性は立体映像だった。ルビー色を彷彿とさせる長い紅色の髪を結い上げ、黒いスーツを纏った痩身が直立不動に起立している姿は、何処か敏腕秘書のようである。何処から見ても非の打ち所のない姿を見下ろし、コンラッドは顎鬚を撫でると小さく呟いた。
「今ここはキャディラックじゃねーぞ」
[……]
 その言葉が聞き取れたのか聞き取れなかったのか、しばしアリスはその場で姿勢を保っていたが、不意にふっと姿を消失させる。ほどなく数秒して現れたアリスは、先ほどの勤勉な姿は何処へやらふわふわと柔らかそうな髪を二つに束ね、同じようにふわふわとしているスカート―――俗にいうメイド服―――の裾を押さえるようにして、我侭な天才を見上げた。
[ご主人様、アリス・メイヤーこちらに。何か御用でしょうか?]
「用がなきゃ呼ばねーよ」
「……」
 ぴく、とアリスの肩がイラついたように跳ねたのは気のせいではないだろう。それでもアリスは顔に貼り付けた微笑を剥がさないまま主人を見上げている。しばしの見つめあいでも、両者動くことはなかった。
 コンラッドはやっと満足がいったのかノートをぱさ、とアリスの前におきページを開いた。
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